米沢慧さんとの往復書簡

内藤いづみと米沢慧の新養生訓 第二回

米沢慧さまへ 第二回往信

何を言い残すべきか?
やっと梅雨が終わります。温暖化を背景にしているのか、雨が大量に降り、時には熱帯雨林のような土砂降りの雨も甲府盆地であります。
前例のない、という言葉が頻繁に使われています。

8月になっても新型コロナの見通しはつきません。
冷静な分析と、忍耐をわたし達がどこまで持てるか問われているかもしれませんね。
私の仕事は相変わらずです。いつもそこに登る山があります。
気は緩められず、チームに声をかけながら一歩ずつ進んでいます。
今は若い命に向かい合っています。
ここも、忍耐と冷静さが求められます。医師としての使命を自覚してぐっと心を握りしめます。泣いたり、同情する暇はありません。その方のためにできることを、必死で考えています。
先日NHK BSで放送された「うたう旅」そのインタビューでもそんなことを私は答えていました。
ホネボーンというシンガーから捧げられた歌も素敵でした。
ちらっと一部を紹介しますね。(著作権がありますので)

(あなたにとっての幸せは あなたにしかわからないからどんな山に登りたいか あなたが決めていいんです。。。あなたの生き方は あなたが決められる)
私の哲学を伝えていると思いませんか?
命の自律意識。私の仕事はその援助活動ですから。

さて、今回の書簡の大きなテーマ「養生訓」にはなかなか詳しく入れなくてすみません。
300年前、貝原益軒が83歳の時に書いた養生訓を、小児科医の松田道雄の翻訳(中公文庫)で読むとなかなか面白いです。
しかし、90歳を超えて現役で働く前田昭二医師は、著書「人生100年時代養生訓」では、肉食を禁止して体力不足の愚民を作る御用学者と貝原を手厳しく批判しています。
私はそうかなあ?と思っています。米沢さんも両方とも一度お読みください。
貝原は、説いています。

心は体の主君である。精神が自立して五感をうまく調整する。
自分の体を健康に保つのは、自分の倫理的な責任である、という信念が貝原にはありました。
そしてもう一つの柱が精神の安定のための禁欲です。食欲、色欲、惰眠欲、発言欲、喜、怒、思、悲、恐、驚、憂などの七情の抑圧。
世俗から解放された晩年こそ、自分の生活を自分の思う通りに営むことができる。養生訓をただ長命のために読むのではなく、毅然とした晩年の姿を知るために読むべきだ、と翻訳者の松田は言っています。
毅然とした晩年、これは大きなキーワードですね。
お世辞ではなく、米沢さんは毅然と見えます。米沢さんを支えるものは何ですか?

さて、今回お伝えしたいもう一つのこと。
それは、最近私が深く悲しいなあと思ったことです。いわゆる「人生会議」にも関わります。
私に住んでいる地域は高齢化が進み、高齢者の一人暮らし、二人暮らしが多いです。
ご近所さんのお一人暮らしの方は毎日よく歩いたり、食事も気をつけたり、活動的で明るく、私ともよく立ち話もしました。
育てている花の種を交換したり、紫蘇の葉をもらったり。
楽しい関係でした。
私の3人の子供の成長をいつも喜んでくださいました。
たまに様子を見に来る彼女のお子さんより、私達の方が、日常の様子を知っているように思いました。毎日見たり話したりしてますからね。
その方が家で倒れ、帰らぬ人となりました。大往生といえば、そうですが、突然で驚きました。
ちょうど、帰省していた私の子供もご遺体に手を合わせに行きました。
あの方が旅立ったと、胸に刻むために、お参りできてよかったと
思いました。
今は、コロナ禍もあって、病院や施設に入院していれば面会も許されず、死にゆく姿も見れないことが全国でたくさん起きています。
もし家族葬を選べば、どう亡くなったかも隣人も知らされず、いつのまにか、地域から消えているのです。
空き家も増えています。

親しい友人が、闘病していましたが入院してあっという間に亡くなってしまいました。
奥さんとも私は親しかったのですが、亡くなった後を取り仕切るのは、県外から来た子供達です。何のお知らせもなく、お骨になり、お葬式もせず、お別れ会も企画出来ず終わってしまいました。
お顔の広い人だったので、友人知人達は呆然としました。
最期をどう生きて、どう頑張ったのかみんな知りたかったのです。
彼の生きた証を振り返り、話し、泣いて、悼みを共有したかったのです。
お子さん達はお父さんのやってきたことも、人脈もあまり知らなかったのでしょう。
寡黙な人でしたから。
子供達は、さっさと事務的に片付けて去っていきました。
奥さんもすぐに引っ越してしまい、あっという間に、彼が居た痕跡は消えてしまいました。
私たちの心にはポッカリ穴が空いたままです。

人の死は、身内だけの個人的な出来事ではなく、友人も知人も隣人にも大きな喪失の悲しみを残すものです。
形骸化したとはいえ、一連の葬式や喪のイベントはそうした悲しみの受け皿にもなっていたんだなあと改めて思います。

このコロナ禍は、そんな社会的なつながりも冷酷に切り離してしまいましたね。
会うな、離れろ、話すな!ですから。

「人生会議」はどう最終章を過ごしたいのか、話し合っておきましょう、という国からの声かけです。
終末期の治療選択なども求められています。

私は一番大切なのは、一緒に住んでいない身内に、自分はどんな活動をしてきたのか、しているのか、どんな仲間がいて、どんなに大切に、思っているのか、それらが自分の人生にとってどんな意味があるのか、伝えることかな、と思っています。
身内と離れて暮らすうちに、いつのまにか、互いの社会的な活動や頑張りや生き方を知らなくなっているのです。
外来で関わるだけでも、私はその人の人生に目を向けて応援するメンバーの一人にもなります。
最終章の友人になることもあります。
しかし本人が「内藤先生と仲良しなんだよ」と家族に伝えてくださらないと家族はそういう関わりを全く知りません。、新聞の死亡通知で亡くなったことを知りびっくりしたことも少なくありません。

あなたは何を言い残しますか?
例えば、雑草だらけに見える庭だって、好きな植物が植えてあって毎朝の水やりが生きがいなんだ、私が元気なうちは勝手にリフォームしないでくれ、と伝える。
お前の住む都会には移りたくない、ここで頑張り抜く知恵を集めるから手伝ってくれ。
お葬式は地味でいいけれど、友人達には伝えて欲しい、などと。

きちんと身内に伝えておかないとあなたの人生の最期は、あなたの最終章の生き様を知らない身内に仕切られて、生きた痕跡はまるで蒸気のように消えてしまうかも
しれません。
締め括りって本当に大切なんです。
少しの間でも、親しい人たちには思い出してほしくないですか?
米沢さんはいかがですか?準備は万端でしょうか?

今日のまとめ。
老後を毅然と生きることは、老人の幸せの柱である。
自分の大切なもの、大切な人達、大切な活動。
大切な目標を具体的に家族に伝える。
自分が万が一の時は、自分の大切なことの尊厳を守ってくれ、と伝える。

内藤いづみ

内藤いづみさまへ 第二回復信

「晩年」ということば

とんでもない暑さと新コロナのせいで、どこにも行かない、どこにも行けない夏になってしまいました。
さて、今回の書簡のテーマは貝原益軒の名著に対抗して「新養生訓」ということになりましたが、早速突きつけられたことばが「毅然とした晩年」でした。晩年をいきる? ドキリとしました。このドキリ! から逃げるわけにはいけません。
「晩年」(一生のおわりの時期)ということばは、高校時代の「青春」(人生のはじまり)と同じように私の心を揺らした言葉だったからです。図書館で借りた太宰治の小説が『晩年』でした。その第一話の冒頭は、いまでもしっかり諳んじていえます。
《死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。ねずみ色のこまかい縞目がおりこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きようと思った。》
この書き出しは、なんのことだかわからず、戸惑いました。声をだして読み返し、「これは夏に着るものだから夏まで生きよう」というフレーズにはまって泣き出したことです。ただ事ではないとおもいました。太宰には『晩年』という作品はありません。15篇を集めた初の創作集の題名です。27歳でこの本を上梓して作家生活に入り、40歳を前にして自死しました(1900~1918)。彼は自死を前提に『晩年』と記したのだとおもいます。そして太宰は「晩年をいきた」のです。そして、わたしはこの書き出しのことばが好きになりました。それだけではありません。ときに支えの声になっていたのです。
18歳で東京に出てきてから、つまらないことに躓いたりすると(人生に、などとはいいません)、ふと季節に関係なく「夏まで生きよう」とか、「夏に着るものをください」とか、そしてさらに「困ったときの、太宰さん」と口にするようになり、その後はあらたに「困ったときのアキヒコ(岡村昭彦)」とか「困ったときの三木(成夫)さん」などと呼びかけたりつぶやくようになりました。これはフリーランスという単独者の小径を歩いてきた私の養生訓だったといえるかもしれません。ですから「毅然とした晩年」なんてとても、とても(笑い)。生きてきたように晩年をむかえるほかありません。
老いる、病(やま)いる、明け渡す
ところで「晩年」は、人生の終わりの時期であると同時に「いのち」を繋ぎ、次の世代に引き継ぐところでもあります。明治・大正時代の平均寿命は40歳、戦後間もなくには人生50年といわれ、令和の今では漱石の時代の2倍。平均83歳(男子81歳、女子87歳)で、百寿者は7万人をこえ、「人生100年時代」というコピーも違和感がなくなりました。
この流れを視野にわたしは『自然死への道』(朝日新書 2011年)を著しました。つまり、「晩年」は高齢者を「老いるー病(やま)いるー明け渡す」といういのちのステージを生きる世代として迎えられるようになったのです。その過程(晩期)をわたしは老揺期(たゆたいき)と呼ぶことにしたのです。

「老いる」というのは、老後や死の手前とか生の終わりの過程ではなく、老いをいきることです。(ここで、心身の老化と慢性的なうつ状態を受け入れ、介護を受ける勇気とよろこびがもとめられます。)
「病(やま)いる」というのは、「老いる」が老いを生きることであるように、病と闘うのではなく、病と共にいきる、従病(しょうびょう)というすがたです。そして、さいごはいのちを「明け渡す」というステージになります。
ところで、この〈老いるー病いるー明け渡す〉というラインに近年登場してきたのが「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」で、「人生会議」という愛称までつけられました。人生最終段階の治療の選択や死に方まで話し合う場です。ここでは、内藤いづみさんのように「死亡診断書」を遺族に「人生の卒業証書です」と手渡せるだけの「いのちを語り継ぐ」場にしてほしいです。
関連して、今回の内藤さんの書簡で目に止まった言葉が「家族葬」です。この20年ほどの間に弔い方が変わってきました。ことに「会うな、話すな、近づくな」のコロナ禍のなかで死生観が大きく揺さぶられているのはたしかです。過日、わたしも親しかった人の死が「家族で見送りを済ませました」というはがき通知でした。
「人の死は、身内だけの個人的な出来事ではなく、友人も知人も隣人にも大きな悲しみを残すものです。形骸化したとはいえ、一連の葬式や喪のイベントはそうした悲しみの受け皿にもなっていたんだなあと改めて思います」
この内藤さんの訴えにはまったくの同感です。

明け渡しのレッスン
さて、8月お盆にちなんで、ここで紹介してみたいことばがあります。「ときあかり」聞いたことがありますか。
毎年、何度かお訪ねする佐賀県唐津市の吉井栄子さん(「お世話宅配便」代表)に数年前に聞きました。当初は地元の銘酒の話かとおもったほどでにした。辞書で確かめてみると、明け方、東方がかすかに明るくなること(大辞林)とあります。けれど、ここで「ときあかり」は逆で、西方に沈んでゆく陽の翳りのなかで彩るいのちを指すのです。
どういうことか。それは、亡くなる直前に生気を取りもどしてみせる人の姿をさしていうことばでした。こんなエピソードがありました。

① 長いこと寝たきりだったお祖父ちゃんが急に散歩に行って、買い物に行って、部屋の片付けして、次の日また寝たきりに戻って、その次の日に亡くなった。
「今思えばとても不思議です。仏壇の引き出しにはお祖父ちゃんが入れたと思われる通帳と印鑑が入っていたと母が言っていました。お祖父ちゃんは自分が亡くなるってことわかっていたのかも知れないです」

② うちのばあちゃん、長く入院してやっと家にもどったら「ご飯が食べたい」といい、食欲が出てモリモリ食べておかわりまでして、その翌日に亡くなった。でも、家族はみんな「ばあちゃん、死ぬ前にいっぱい食べられて良かったねえ」と喜んだんですよ。

③ 認知症だった祖父が突然「紙と鉛筆貸して」って言って貸してあげた。何か書こうとしているんだけど書けないらしかった。「夜ももう遅いから書き物は明日にしよう? 明日になったら書けるよ」といって部屋の電気を消して出ていったら、翌朝紙と鉛筆もったまま亡くなっていた。電気を消さなければよかった。悪いことしたと思う。遺書のつもりで何か書こうとしていたんだろうな…。

「ときあかり」はロウソクの灯りに見立てると納得できます。ロウソクは燃え尽きる直前に太く瞬き、その後に火は消える…。そんな〈いのち〉の名残りを指しています。
そこに関連して、よく知られている「お迎え」現象があります。「親父が迎えにきてくれた。あの世で親父に会えると思うとたのしみだ」とか、「仏様がきているけど まだはやい。追い払ってくれ」「お花畑がみえてキレイだった」などと口にした人が追っかけるように亡くなっていくのです。

① はじめて幻覚のような症状が現れたのは、死期の一ヶ月前。家族が「だれ」と聞くと「男の人、とか女の人」とかで具体的な名前はいわず、一瞬にこにこしているようだった。家族が「おじちゃん(夫)がきたの」と聞くといなくなったとかで、穏やかな幻覚が多少あったようだが、それで苦しめられる様子はなかった。

② 戦争体験者Sさん。「兄貴が今来てるんだけど、しゃべってほしいのに何にもしゃべってくれないんだよ、先生」と言われびっくりした。幻覚かどうか調べるために指を立て、「これ何本かわかりますか」とか、「私が誰だかわかりますか」と確かめたが、Sさんの認知は正常で、周囲のこともしっかり見えている。お兄さんは呉で戦艦陸奥が爆沈したときに死んだ乗組員で、私が「お兄さんはどこにいるの?」と尋ねると「そこにいるんだよ、先生、見えない?」と指差すが、私には見えない。Sさんは、いろいろ語りかけたが「やっぱり何も言ってくれない」と残念そうだった。(『現代の看取りにおける〈お迎え〉体験の語り 在宅ホスピス遺族アンケート』 ※東北大学文化社会学 岡部健他 遺族366人、「お迎え」体験は4割超)

興味深いのは、「ときあかり」や「お迎え」はいずれも在宅死で、病院や福祉施設など、医療制度に支えられている病院死には現れないといいます。「ときあかり」や「お迎え」の現象は、医療施設では幻覚をともなった「せん妄」として治療の対象になってしまうのだといいます。「臨床宗教師」を提唱した在宅医の岡部健さん(末期がんで、2012年死去)は、「お迎え(ときあかりを含む)」がせん妄によるものかどうかより「お迎え」(ときあかりも含む)を体験した患者がほぼ例外なく穏やかな最期を迎えることに着目してほしいと、在宅医としての体験事例が多く残されています。(奥野修司『看取り先生の遺言』文春文庫)
岡部さんは「お迎え現象は、精神と肉体がほどよくバランスをとりながら衰えていったときにおこる」と指摘しています。つまり、死への準備過程で起こる自然現象であり、これは家族に委ねられるべき場面だといっています。

さいごに、わたしが遭遇した場面にふれておきます。20年近く前になりますが、93歳の義母が亡くなる前日の昼過ぎ、わたしが外出する際に交わした義母との数分の会話です。
〈ベッドの脇に立ったとき、唐突に「ヨネザワ君。わたし、もうすぐいなくなるから。ありがとう」という(義父母とは20年ほど暮らしたが、をさいごまでヨネザワくんと呼んだ)。
「もうすぐいなくなる…。そんな気がするんですか」
「来週はもういないとおもう。お世話になったわ」
わたしは(もうすぐ死ぬ? そんなこと言わないでがんばって)といういつもの言葉を飲み込んでいた。義母の目は、そういうことばを期待していなかったからだ。
「ぼくもいっしょに暮らせて、よかったですよ」と手を差し出した。
「長いこと、ありがとう。それから、××子は来週にはあなたに返すから」〉
(『自然死への道』の「明け渡しのレッスン」からの引用)
ここで××子とは妻の名前です。おもしろい言い方だなあとおもって「まだ、いいですよ」とことばを返したほどでしたが、差し出した私の手を握りかえしながら“母”の顔でうなずいたのです。義母はその日の夕方、病院で診てもらうからと入院をせがみ、翌朝病院で一人看取られることなく亡くなったのです。これは、わたしが体験した忘れがたい「ときあかり」だったにちがいないのです。

米沢慧

追伸
1日6000歩 あるいは1日4キロという歩行計画はほぼ順調です。
次回予告 ―96歳の母からの宿題