内藤いづみと米沢慧の新養生訓 第六回
米沢慧さんとの往復書簡、第六回「走れ!ホスピス」。
内藤いづみさまへ 米沢慧より 第六回往信
走れ!ホスピス
コロナで新年を迎えて、緊急事態宣言、ワクチンへと落ち着かないなかでの書簡になります。
近年冬を前にして、決まって浜名湖北岸の三ヶ日みかんが届き、元旦に電話が鳴り、「おめでとうございます」と元気な声が届くのは、愛知県豊橋市「かけはしの会」山田和男さん。コロナ禍の今年も、いつもののように「頑張っています」の声でした。
今回は明るい話題として、介護タクシー「かけはし」山田さんのホスピス活動を紹介したいとおもいます。
「走れ! ホスピス」 介護タクシー、20年の夢
紹介するのは豊橋市(愛知県)で介護福祉タクシー開業23年になるという株式会社かけはしの山田和男(73歳)さん3年前に立ちあげた「かけはしの会」です。
介護福祉タクシーといえば、病気の人、障がいのある人、介護が必要な高齢者などを送り迎えするのが仕事。東三河(愛知県の豊橋市、田原市など8市町村、約75万人)なら、いつでもどこへも24時間の対応ができるといいます。スタッフは3人、4台の車両。そのうちの一台は地域で唯一、医師や看護師が同乗して使用できる人工呼吸器や痰吸引器等を備えた大型車で、ストレッチャー(車輪付きベッド)や車いすの重篤患者さんの搬送がほとんどだということです。
◎いのちの「かけはし」へのおもいはどこから
介護タクシーも20年余り。「いろいろ学びながら来ましたが、ここ数年は終末期の方の搬送が非常に多くなりました」と山田さん。3年前の2018年には年間の利用者数は千人を超えて、病院から自宅へ、A病院からB病院へ、自宅から施設へ、施設から病院へ…。重度の障害の方、末期がんの方等の移動が圧倒的に多くなった。そしてコロナ禍でも大きな変化はないといいます。以下、山田さんの話です。
「仕事の性質からもご本人も家族も緊張されて、ときには『次の病院行きたくない』っていうおもいが伝わってきたりもします。神経をつかいます。あたりまえですけど。
移動の不安を取り除くためには、事前にお会いして、『いま、何が一番必要ですか、なにがほしいですか?』ってお話する機会があればずっとちがいます。おもわず「痛みがつらい」とか。それから「お風呂に入りたい」っていうお話。「食べられるように」。そして「お家へ帰りたい」。そんな声を聞きながら、家族のみなさんの願いや思いも伺っておくことですね。そして「先生も看護師さんも、みなさんよろこんで迎えていただけますよ」とことばを添えるようにしています。
退院の日、病室では不安な表情だった患者さんも自宅に近づくにしたがって穏やかになり「ありがとう」と声をかけられることもありますね。
「人生の99%が不幸だったとしても、さいごの1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものにかわる」という言葉が気に入っているんですよ。この言葉は「死を待つひとの家」を開設したマザー・テレサの言葉だそうですね。この1%、ということばが気に入っています(笑い)。
思い出旅のお供をしたこともあります。人生さいごに観劇をとかお墓参りや、郷里の桜が見たいとおっしゃって九州までご一緒したことも。
わたしも何度か助手席に乗せてもらったことがありますが、人を運ぶというよりは同乗者の呼吸に合わせて走るといったものでした。
◎市民ホスピスへとかりたてた「かけはし」へのおもい
発端は20年ほど前。「50歳になったら、社会に恩返しをしたい」とNPO活動を念頭して始めた搬送サービスだったといいます。「かけはし」は、山田さんの妻かつ子さんの命名でした。ところが2009年、仕事の右腕でもあったかつ子さんが5年の闘病のすえ乳がんで亡くなった。その時に入院した豊橋医療センター(国立病院機構)緩和ケア病棟の佐藤健医師からホスピスという終末期ケアの実際にふれて、やがてホスピスの勉強会にも通うようになったこと。そして岡村昭彦の会の活動に参加され、私が口にした「市民ホスピス」ということばに関心をもっていただいたことです。
因みに、「市民ホスピス」ということばは、岡村昭彦が「日本にホスピスは根付きますか」という質問に、「ホスピスとは施設でも病院でもなく、運動です」と答えた箇所に関係しています。
「ホスピスが根付く」という運動とはなにか。岡村は次のように言っていました。
―ホスピス運動は、バイオエシックス(生命倫理)の大きな流れのひとつである。
―ホスピス運動は、関わる人のすべてが平等・対等でなければならない。
―ホスピス運動は、自分の住んでいる地域の問題から手をつけるべきである。
―ホスピス運動は、コミュニティのなかで一人一人が参加できるボランティア活動。
―ホスピス運動は、亡くなっていく人の世話を通して生死(いのち)を学ぶこと。
これが「市民ホスピス」へのメッセージだとわたしは受け取っています。が、山田さんもこの言葉に共感され、活動の指針にされたのでした。
「わたしの仕事は、いのちのかけはし」
「東三河をホスピスの郷にしたい」
その思いを受けてわたしは地元・東三河で「いのちを考えるセミナー」を2年6回、各地区で開催することになり、私もまた「支え、寄り添い、共にある」という山田さんの実践活動に共感する人たちとの交流がはじまったのです。
その1 いのちの「かけはし」は「待つこと」にある
福祉・介護タクシーの仕事といえば、介護運転資格取得者が、依頼を受けた患者さんを自宅から病院へ、あるいは病院から病院へ、安全かつ無事に送り届けることです。それには、乗車介助や降車介助、さらに目的地での移動サポート等が業務です。
ところが、わたしが気づかされたのは、介護輸送者の責任は無事に届けるだけではなこと。山田さんはその前の準備時間を大切にしています。さきに触れましたが、事前(前日)に面通しの挨拶に出かけます。患者さんの様子や当日の付き添いの有無、道路事情、時間等をチェックするのは当然としても、患者さんの「安心」を届けること。無事に送り届けるためには、そのための配慮と準備が、利用していただく人に見えていることが大切だというのです。「待つ」という山田さんの立ち位置は独特でジャンパーや靴もまた、落ち着いた雰囲気があります。
「待つ」とは見えないところが見える、邪魔にならない場所に立つこと。山田さんの姿は、3人め、三番目の位置。つまり、それが「いのちへの配慮」。わたしのいうファミリー・トライアングルの構図になっているんです。
その2 ホスピスの郷への願い
あらためて東三河とは、愛知県の東部、豊川流域および渥美半島で、遠州灘に面している地域で中心地は豊橋市。豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、長野県に隣接した設楽町、東栄町、豊根村の八市町村で人口約77万人。これらの地区は山田さんにとってはほとんど我が家の庭同然で、役所の手続きからあらゆる遊覧スポットまで目が行き届いています。
渥美半島では観光おみやげ店や、いちご栽培農家の人などからも親しく声をかけられ、世間話ができる、腰の低い姿が印象的です。
山田さんはもともと北海道の出身。縁があっての豊橋です。ここで暮らして良かった、亡くなるときは故郷にしたい、そんな街にしたい。まさに介護福祉タクシー「かけはし」が街を走るすがたに、「市民ホスピス」という運動を重ねたのです。
岡村昭彦は既存の医療や制度上のホスピスを念頭においてはいません。『ホスピスへの遠い道』という思いも、〈いのち〉を医師や医療機関や施設にあずけることではなく、市民の生活の中にいのちを取り返すといった運動として捉えていたからといえます。ちなみに、『岡村昭彦と死の思想』(岩波書店)の著者・高草木光一さんは、そこから「いのちを語り継ぐ場としてのホスピス」という導き方をしています。
そんなことから、私は山田さんの応援団として、市民ホスピス運動という立場から10年ほど前から活動している「3人の会」(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)に呼びかけ、「かけはしの会」主催の講演とシンポジウム(2018年1月)を開きました。「いのちのかけはしー東三河をホスピスの街へ」でした。
当日は、100人を超える参加者のうち、愛知県久野市のホームホスピス「みよしの家」を立ち上げた久野雅子さんの取り組みや、ボランティアナースの会・キャンナス豊橋の活動などの報告を通して「かけはしの会」はスタートしたのでした。
介護福祉タクシー「かけはし」が走る東三河に、社会福祉士、介護福祉士に訪問ボランティアナース、ソーシャルワーカー、薬剤師に鍼灸師の人たちが、思い思いの課題を語り集まり始めています。行動の機運も「待つ」というエリアが広がったところです。いま、コロナ禍にあっても「ホスピスへの郷」への感触は熱く、私の視野も少しひろくなってきたのです。
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二人の最初の往復書簡『いのちに寄りそって』から25年近くになりますが、当時は、在宅ホスピス医を名乗る女医さんはいませんでしたね
さて、新年早々、書簡に先駆けて届いた内藤いづみの「2021年を生きていく!」のメッセージは「あとがきにかえて」のなかにありました。
〈地元で暮らす良さは? 顔が割れていることです。
時々、道端で、スーパーで声をかけられます。
「内藤先生!」って。
「はいはい」と答えます。
逃げる必要のない私ですから。〉
この存在感は、割烹着を身に着けたおばさん(笑)のように見えますが、ホスピス医の立ち位置は、次のことばで際立っていました。
〈旅立ちへの日々が恐怖ではなく、安堵して、輝ける日々になることを目指して〉
まさに「いのちを語り継ぐ場」としてホスピス。ホスピスの街が定着しそうですね。
コロナに負けず、本年もどうぞ、よろしく。
米沢慧さんへ 内藤いづみより 第6回復信
時代の尻尾をつかめ
今年初の書簡ありがとうございました。
コロナ禍の今、やりとりはゆっくりになりますがお許しください。
書簡に取り掛かるエネルギーが湧かず、待つ時もあります。しかし、今という時をしっかりと刻印しておくのも大切かな、とも思います。
お付き合いに感謝します。
岡村昭彦は、「時代の尻尾を掴め」という名言を残しています。
価値観の大きな転換になりそうな今、尻尾はどこにあるのか?果たしていくつあるのか?
どこに隠れているのか?と思いを巡らしています。
新型コロナへのワクチン接種について、様々な情報が駆け巡っています。
外来では、各世代の患者さんが、「打ったほうがいいですよね?」「よくわからなくて打つのが怖い」「先生は絶対打ちますよね?」「100歳のうちの親に打った方がいいですか?副反応大丈夫でしょうか?出た場合、耐えられるでしょうか?今は、元気ですが。」
どの質問にも自信を持って答えられません。全く初めてのことだからです。
100歳の今を、何とかバランスを保って生きていらっしゃる方へのワクチン接種には大きな責任を感じます。
副反応が出ても、責任と補償は国が持ちます。しかし、実際に注射する私たちの心理は複雑です。割り切れるものではありません。
そして私の周りでさえ、100歳の老人は少なくないのです。海外のいくつかの国では、超高齢者へのワクチン接種は主治医がその利益と不利益を熟考して決定すること、などとありました。
しかし、その決定を引き受けることは難しいです。
私が巡回しているグループホームなどでは、スタッフが手厚く熱意を持ってお年寄りたちをケアしています。
施設内で過ごすことが多くなり、家族とも頻繁に会えず、命の移ろいの様子はスタッフだけがほとんど見守る現状です。
米沢さんも親御さんと、リモートで交流したとおっしゃっていましたが、それはないよりももちろんいいけれど、緊急対策にしかなりません。
私の夫も、96歳になるイギリスの母とやっとリモートで話をしました。施設に避難したので、向こうの身内も直接会えません。
こんな重要な命の局面を、身内抜きで専門職だけが抱えることの心身の負担を想像していただきたいと切実に思います。
接種の承諾をいただいた後を抱える人たちの思いを想像していただきたいのです。
「ケアする人のケア」も必要です。
以上近況報告です。
いただいた書簡で豊橋の山田さんとの関わりを教えていただきました。
そんなに濃く交流し、関わっていらしたんですね。
昔のことですが、私の講演会に山田さんは何度かおいでになり、名刺とお土産をくださいました。
いただいた名産のちくわが美味しかったことは忘れられません。
山田さんは、ホスピスケアの熱い心を秘めて、飄々と、涼やかに活動している方だと思います。
何より岡村昭彦のホスピスの核心に共鳴し、行動に移したところが素晴らしいです。
いただいた写真を見ると、素晴らしい装備の介護車ですね。
どんな対応もできそうです。安心して任せられますね。
昨年、NHKで見たドラマ、「天使にリクエスト」を思い出しました。命短い人の最後の望みを重装備の介護車で疾走しつつ、叶えていく。
何とか助けようと奮闘する人たちもまた、深いトラウマを抱え、命短い人を助けていると思っているうちに実は自分が助けられて、ライフレッスンに向かい合って行く。そんな物語でした。
リアルな温かさが心に残りました。
山田さんの人助けもマイルが増すほど逞しく、温かなものになっていることがよくわかりました。
さて、「ケアする人のケア」は、静岡県ボランティア協会が10年以上シリーズで発信しています。
私も何度も協力しています。今年は初のリモートでした。
ホスピスケアの学びが私の基本線です。人間のトータルな痛みに関わる私達は、ケアの場で患者の痛みに寄り添ううちに、同調し抱えすぎることもあります。
訪問看護は大きくはチーム医療ですが、実際の訪問時は一人という時も多い。
チーム間のコミュニケーションが風通し良くないと、各メンバー自身が現場で味わったり、抱えている苦痛や葛藤に気づかないことも起こります。
下手をすると、燃え尽きてしまう危険性もあります。
リーダーの目配りが大切です。チームが健全にケアを続けていくために。
人間を形作る要素。体、心、社会との絆、大いなる存在との関わり(スピリチュアル)この四つにそれぞれケア(手当)の方法を用意すること。自分のために。それが「ケアする人のケア」の始まりです。
コロナ禍が一年以上過ぎて、事態に慣れたせいか、私も自分へのケアが薄くなっています。
信用するセラピストにもなかなか自由に会えません。セルフケアをもっと開発しなくては、と思っています。
セルフリハビリをしつつ、一歩づつ前進という感じです。
開発が進んだら、具体的にお伝えしますね。
第3波はきついです。出口が見えない苦しさに、忍耐力がおちている、そう感じています。
第3波を乗り切るために、ある本を手にしました。
「夜と霧」フランクル博士の有名な名著です。いま、世界中でまた読まれていると聞きます。
そうだろうなあ、と思います。
ご存知と思いますが、精神科医のフランクルは第二次世界大戦で、ナチスによる強制収容所を生き延びた人です。
家族はバラバラに各地の収容所に入り、殆どがそこで亡くなりました。
フランクルは過酷な環境で絶望に喘ぐ人々の様子を克明に記録し記憶しました。
そして、生き延びるためには、希望をつなぐことが重要だと確信し、生還した戦後、実存哲学を広めました。
人間性を失うような環境で、昔幸せだった時、愛した人のことを思い出す。フランクルは妻のことを、思い出し心を保ちました。
未来に果したい計画を胸に刻みました。
美しいものへの感動を持ち続けました。ぼろぼろの身体で空腹を抱え、「それでも夕焼けは綺麗だ」と思う心を保ちました。
私も未来にしたいことをいくつか、胸に刻みました。具体的に思い描き始めました。
ワクワクすることです。今のところ秘密です。
心が少し、息を吹き返した感じがします。
フランクルの話はまた、改めて詳しく語り合えたら嬉しいです。
尊敬する人のことも思い出しましょう、とフランクルが言ったかどうか。
私の尊敬する人、永六輔さんとの交流をご存知の方が多いので、色々と資料が届いたりします。
先日は、永さんの俳句が知人から届きました。
「泣きそうで泣かない坊や春嵐」
今早い春一番が吹き、強風の毎日。坊やが手足をバタバタさせながら、大泣きするような春の嵐の実感がありますね。
永さんは40年以上句会を開催し仲間と俳句を探究していました。
あの!渥美清さんもお仲間だったとか。
私は、永さんの俳句をまとめて読んだことがなく、この本を求めました。
渋く、かっこいい装丁の本です。
色々辛いこともあったのに、いや、あったからこそ、永さんは俳句は作り続けていました。
俳句は永さんの宇宙の窓ですね。
奥さんを自宅で看取った後の句。
「看取られる筈を看取って寒椿」
ご本人が亡くなる2年前の句もありました。
「三年を余生と決めて衣かつぎ」
しっかり人生の最終章を自覚なさっていたとわかり、心が震えました。
冷静な視点と、命を生き切るための覚悟と希望。
1967年から49年間に渡り、途切れることなく続いたラジオの冠番組。その終了を告げた10日後に亡くなりました。見事な生涯現役。
さすが我が師匠、永さんは当代一の人物でした。
養生の先にあるのは、覚悟に裏打ちされた満足ないのちの最終章でありたい。
次回の往復の時には、私達の身の周りはどんな様相になっているでしょうか?
さてさて、私は時代の尻尾を掴めるか?
内藤いづみ