エッセイ

09年 夏休みの旅

イギリスの夫の母の家に、私の家族ほぼ全員が集まるのは数年ぶりのこと。いつも私の仕事が優先して一緒に行動できなかった。今年の夏は、患者さんや職員に迷惑を掛けるのを謝り、夏休みにイギリスとベルギーを訪れた。もちろん国際携帯電話を携えて。今一番心配な患者さんの様子を、イギリスの空の下で担当ナースからのメールで確認を重ねた。


何とか私の留守の間は小康状態でいて下さった。
夫の母は私の母と同じく世界大戦を体験した同世代。根性があり、働き者。ひとり暮らしを立派に続けている。しかし80歳を越えて、足腰の老いは隠せない。所々手を貸しながら、ベルギーの旅に誘った。ご存じのように、もはやイギリスは欧州での孤立した島国ではない。ドーバー海峡の下をユーロトンネルが通り、ロンドンから欧州大陸のパリとブリュッセルが直通特急電車(ユーロスター)で結ばれた。それはまるで夢のようだ。ところでイギリス人気質か、がんとして欧州共通通貨(ユーロ)に加盟しないので、イギリスはヨーロッパで数少ない自国通貨(ポンド)を持っている国のひとつ。イギリス人なりの哲学があるらしい。
ロンドンからの出発駅セント・パンクラス(St.Pancras)駅は様々な人種でごった返していた。国境の存在が薄くなり、ヨーロッパ中人間が大量に生き来し、交流している。言葉も常に3ヶ国以上が使われている。多文化との共生、この試練なくして国際化は望めないだろう。日本の国際化が少し心配になった。
今回、ベルギーのブリュッセルを一日案内してくれたベルギー人の知人は、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、日本語の5ヶ国語がペラペラだ。多くの国境に長い間接して生きていたベルギーの歴史を感じた。
ベルギーはビールと甘いもの(チョコレート)で有名な国だ。数えきれないほどのチョコレート屋さんが街にある。日本の暑い夏を考えると、お土産に持って帰れずとても残念だった。ビールは300種類あるそうだ。それぞれにあったグラスがある。ブリュッセルとブルージュのふたつの街を見て回ったが、街並みを含め、古いものを大事に保存していた。私たち日本人はもっと古いものに価値を見出し、大切に保存し、その上で残したものに新しい価値をも見出す道を探ってもいいと思う。手遅れではないはずだ。
さて、今回の旅でももちろん私は“ホスピスの道”を辿った。それはブルージュというベルギーのいにしえの水の都に待っていた。ブルージュの街全てが歴史的建造物や美術館といってもいいほどの佇まいを見せていた。州庁舎は19世紀に建てられたネオゴシック様式の美しい建物。鐘楼は世界遺産の指定。一時間毎に鐘が鳴る。ブルージュの街の石畳をコツコツと歩いていると、時の流れが遅くなる気持ちになった。気温は20度台、快適な気候。
ブルージュは北海との貿易で14~15世紀に最も栄えた運河の街。商人たちが大きな経済力を持ったことが伺える。この街にあるSt.Jchn’s Hospital(聖ヨハネ病院)は800年の歴史を持っている。
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現在は聖ヨハネ病院所有のメムリンク(代表的なフランドル派絵画)の絵画の展示と合わせ、バロック様式の教会を持つ、聖母病院とともに、病院の歴史を伝える病院博物館(Hospital Museum)として改築され、旅行者に人気がある。
私はここに足を踏み入れた途端、“ホスピスの道”を辿ることに気付かされた。「ホスピス」という言葉は、現代のホスピス運動の母と呼ばれるイギリスのシシリー・ソンダース医師が60年代から好んで使い、世界中に広がった。
私もホスピス運動の種を頂いた者のひとりだと自認している。しかしながら、ホスピスという言葉はヨーロッパでは私たちの想像の範囲ではあまり使われていないように思われる。
所謂ホスピスの歴史は、キリスト教聖地の巡礼者の保護から始まったと説明されることが多い。
この聖ヨハネ病院でも、何世紀に渡りシスターや僧たちが巡礼者、旅人、病人の面倒を熱心に看てきた。この聖ヨハネ病院の中世の時代の主な機能は医療的ケアではなかった。
貧困者のためのシェルターであり、食べ物を与え、傷の手当をすることだった。(伝染病の患者は追い返された)病人のケアの主な目的はスピリチュアルケアであった。
最も重要なことは魂のケアであり(カソリック教であるから)、日々の祈りや告解も大切なことだった。病院は1600年まで専従の医師がいなかった。病院に薬房はあり、ハーブなどが煎じられて患者に与えられた。17世紀になり、解剖学などが医療の分野で発達し、病院での医療的ケアが改善されるようになった。1778年にJan Beerblockによって描かれた聖ヨハネ病院の大部屋病室の絵には、この病院の当時のケアの様子がたくさん観察できて興味深い。
ひと部屋に何十人も寝かされている、シスターたちがハーブ薬を運び、医者が診察する。重症者のインテンシブケアコーナーもある。ターミナルケア(終末期)のコーナーでは神父が最期の儀式を行っている。
病院の管理者の巡回。経営は国からの助成は乏しく、地域での税金、寄付や教会そのものの事業で成り立っており、運営組織が成立していたという。経済力のあった商人の力も大きかっただろう。多くの素晴らしい絵画や宝物は彼らからの寄付である。この大部屋病室の中で看護、食事、お見舞い、祈り、死の看取りが同時に進行している。プライバシーはほとんどない。遺体は病院の敷地内にある墓地に埋葬される。この墓地には病院の中で亡くなった患者のみでなく、ブルージュの街の貧しい住人や処刑された罪人まで運ばれてきた。埋葬し、最期の休息の地を与えることはカソリック教の教えの7つの慈悲のひとつであったからだ。こうしてこの病院は時代の移り変わりとともに、1976年まで病院としての機能を担ってきた。
1980年代にジャーナリスト岡村アキヒコは、アイルランドのカソリック系病院での現代ホスピスの始まりを伝えてくれた。そこでもシスターたちが重要な役割を果たした。しかし、こうしてホスピスの根っこは古く、広く、ヨーロッパ大陸ベルギーのブルージュでも確かに見つけることができた。尚、この病院博物館には、メムリンクの素晴らしい宗教画が6作品展示されている。私は宗教画についてはこれまでよく見方がわからなかった。しかしこの博物館で解説を丁寧に聞いてから、目からうろこ!という気持ちになった。
メムリンクの絵には時間軸の異なるたくさんのキリストのストーリーが重ねられているのだ。当時、字の読めなかった民衆たちに伝えるキリスト人生の絵巻物なのである。情報を伝える最高の方法であったのだろう。私は数年前、長野市の善光寺の宿坊でブッダの一生を伝える縁起絵巻の説明をご住職から受けたことを思い出した。似ていると思う。
今回の旅に私は遠藤周作さんの『沈黙』という本を持参した。
日本に江戸時代の布教に渡ったイタリア人神父たちの試練。尽くしがたい受難。ストーリーはメムリンクの宗教画と重なり、現実感を持って私に迫ってきた。苦しくなるほどに。
「内藤くん、いつでも、どこでも、勉強だな。頑張るだぞ」
そんな周作先生の声が協会の薄暗い片隅から聞こえた気持ちがした今回の旅だった。


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