エッセイ

ドンマイ!

人との出会いは人生を変える。医師との出会い、教師との出会い。そして友人との出会い、パートナーとの出会い。知人が中村瑞希さんの作文をみせて下さった。読むうちに涙が止まらなくなった。
教師という仕事の崇高な原点に気づかさせてもらえた。心身ともに疲れている先生たち、親、大人にぜひ読んでいただきたいと思い、中村さんの了解のもと、ここに掲載いたします。


内藤いづみ


「ドンマイ!ドンマイ!」私がつまずいたり、くじけそうになったりした時、この言葉がすっと頭を過ぎる。これは、小学一、二年生の時に担任をして下さった、中村裕子先生の言葉である。
私が、初めて先生と出会ったのは、入学式の日。希望と不安でいっぱいだった十九人の一年生に裕子先生はにこやかに笑いかけてくれた。正直なところ、一年生の時の記憶はあまりないけれど、毎日先生が元気よく、おはよう、と迎えてくれ、ちょっとしたお手伝いをすると、いつでも、ありがとう、と笑顔で言ってくれたことは鮮明に覚えていいる。世界で一番美しい言葉は「ありがとう」、一番幸福なことは、誰かに「ありがとう」と言えること。こんなシンプルな事実を、先生は幼かった私に教えてくれた。大好きな先生の笑顔を見るのは、新しいランドセルを背負い学校へ行く以上に、とても嬉しかった。
二年生になった。昨年に引き続き、担任は裕子先生であった。その発表を始業式で聞いた時、躍り上がって喜んだ。心から信頼している先生と、また一年生の時のように楽しく毎日を過ごすことができるのだ、と思った。
春の遠足は一日中笑っていた、と思えるほど、とても楽しい一日だった。服を泥だらけにして、山をすべった。裕子先生も無邪気な子供のように、私たちと共に服を汚し、思いっきり山をすべった。山中ににぎやかな声が響いた。
水泳記録会が近づいてきた。私は、水が恐く、泳ぐのが苦手で、出場するのをあきらめかけていた。そんな私に、先生は「ゆっくりでいいんだよ。十五メートル泳ごうよ。」と優しく声をかけてくれた。先生が言うのなら、十五メートル頑張ろうと決意した。当日私は、ついに十五メートルに挑んだ。今では十五メートルごとき、と思うけれど、当時の私にとって、それは果てしない道のりに思えた。ピストルが鳴ると、おもいきり息を吸いしぶきをあげて泳いだ。必死だった。先生の声が聞こえた。プール再度を先生は手を叩き、私の泳ぐ速度に合わせて声援を送りながら、歩いてくれていた。十五メートル泳ぎ切った時の、あの喜びは忘れることができない。先生は、私の肩を抱いて「よく頑張ったね、みーちゃん。」とあふれそうな笑顔で言ってくれた。心の底から嬉しかった。
秋が深まった頃、生活科で行った林に私たちは秘密基地を作ることにした。林全体を見下ろせる小高い場所にロープや木を使って、「基地」は完成した。私たちは、小川や木、草花や虫、風などに名前を付けたり、ままごとをしたりして夢中になって遊んだ。まるでトムソーヤになった気分だった。先生と十九人の子供たちの秘密基地は今でも存在する。
冬に近づいた頃、落葉のふる校庭で、焼いも退会をした。皆で育てたいもは、この上なくおいしかった。私は、外階段のすみっこの先生の隣でいもをほうばっていたが、ふと先生を見上げた私は、はっとした。遠くではしゃぎながら走っている子供たちを、じっと見つめている先生の眼には、涙があふれていたから。でもそのときは、なぜか先生に泣いている理由を尋ねてはいけないような気がした。
ある日、裕子先生は私たちに「みんなは何のチャンピオン?」と聞いた。そこで、班の友だちの良いところ探しをすることになり、カードが配られた。私たちは、始めてお互いの良いところをじっくり見つめることができた気がした。この作業が知らぬまに私たちに定着し、個性を認め、自分らしさや、友だちのその人らしさを温かく見つめることができるようになったと感じる。
歌が大好きな私たちに、先生は「ドンマイ」という歌を、教えてくれた。私たちはすぐその曲が好きになり、振り付けをしながら歌うようになった。毎日毎日歌った。そのときは分からなかったけれど、今思えばそれはまるで先生から私たちへのメッセージのような気がする。「一つ一つの出来事が僕らを大きくするから、一度や二度のつまずきはふきとばすのさ、ドンマイ、後ろを振り向くな、ドンマイ、明日はまた来る」この歌詞のように先生は少しくらいの失敗は気にせずに、前向きに前進していくことが大切だ、とよく話してくれた。私たちが失敗したり、くじけそうになったりした時に、先生は必ず「ドンマイ」と優しく声をかけてくれ、勇気をもらったのを覚えている。私たちとこの歌は、いつでも共にあり、私たちにとってこの歌は、忘れられない宝となった。そして私は、このドンマイ、という言葉を心の中で繰り返し思い出し、自分を励ましたり、元気づけたりしてきた。私は今でも「ドンマイ」と聞くと、なんだか心が安らぐ。あの頃に戻ったように…。
沢山の素晴らしい思い出を私たちに残してくれた裕子先生は、隣の町の小学校に異動してしまった。その時、あの焼いも大会で先生が浮かべていた涙の意味が分かった気がした。大好きな先生との別れは、とてもつらかった。痛みにも似た悲しみだった。また会える、いつでも会える、そう自分に言い聞かせた。
裕子先生は、物事を前向きに考え、いつでも私たちのことを最優先に考えてくれた。常に笑顔を絶やさず、悲しいことも苦しいことも、どこかで楽しみを見出せる人だった。私たちを、時には優しく、時には厳しく指導してくれた。私は、そんな裕子先生が大好きだ。好きな人というのは、私がそうなりたい、と思う女性でもある。
しかし、今私がどんなに強く会いたい、と望んでも、もう会うことができない。裕子先生は、四年前、四十一歳の若さで天国に旅立ってしまったのだ。そのことを知ったのは、小学校四年の六月二十一日。朝の会が始まる前、担任の先生から聞かされた。先生の「死」などとても信じられず、誰ひとりとして泣く者はいなかった。亡くなる前年の十月頃から病気にかかり闘病生活をしていたのは、知っていた。とても心配だったけれど、必ず元気になってくれるはずだ、と強く信じていた。運動会に来てくれるとも、卒業式の謝恩会に来てくれるとも約束したのに…あの元気な裕子先生が死ぬなんて、そんなことあるわけないじゃないか、そう皆が思っていただろう。少なくとも、私はそう思っていた。幼い私たちには誌など理解できなかったのだ。家に帰ると、母と姉が泣いていた。はっとした、それと同時にひざが、がくがくして立っていられなくなった。絶対に信じたくない事実に直面してしまった時、言葉がなくなった。裕子先生のあふれるような笑顔が浮かんできた。そのとたん、涙が湧いて、頬に流れた。そして止めどなく涙は流れ続けた。
次の日は、先生のお葬式だった。雨が降っていた。この雨は先生の涙だ、と思った。その雨と私の涙が入り混じり、地に落ちた。手を合わせ、聞くの花に囲まれた裕子先生の写真を見つめた。あの懐かしい笑顔の先生だった。涙があふれ、唇が震えているのが自分で分かった。雨の中、通り過ぎてゆく人の中、私は母に肩を抱かれて泣いていた。私は先生に…何もしてあげられなかった。ほかの学校に行ってしまった、というだけで、何か先生に遠慮をしてしまったのだろうか。やり場のない悲しみと無力感が胸にわいてきて、やっとの思いで先生と最期のお別れをした。
時が過ぎ、私たちも小学校を卒業する日がやってきた。お礼も感謝も言えぬまま逝ってしまった裕子先生に、今までの感謝の気持ちと卒業の報告のために、私たちは先生のお墓に向かった。十九人の線香の煙が、ゆらゆらと空に立ち上がってゆく。私たちは久々に、ドンマイを歌った。皆で歌うのは四年ぶりだったけれど、皆それぞれにこの歌に思いがあるのだろう、歌詞を覚えていた。先生との思い出をたどるように響き渡った。誰かしら、すすり泣きをして、あの楽しい頃とは違った歌となったが、精一杯心を込めて、思いを込めて、先生に贈った。私は、私たちを見て、先生はきっといつものとびっきりの笑顔で、私たちの頭をぐりぐりなでて、卒業おめでとう、と喜んでくれているに違いない。そう私は感じた。
先生は私に教えてくれた。世界一幸せで素晴らしいのは、「生きている」ということ、そして命の尊さや美しさ、友を愛すること、人生を精一杯生きること、誰とでも喜びや悲しみを共有すること、人を疑うよりも信じること、そして何より、笑顔でいること。十五歳になった今、裕子先生の子供たちに対する愛情、教育に対する情熱の深さを実感出来るようになった。先生の存在が、どんなに私のこれまでを支えてくれたか計り知れない。
あの時は、まだ分からなかったけれど、時が過ぎた今、生きている不思議さ、死んでいく不思議さ、そして先生の死を考える。死によって、大切な人と別れることは、とてもつらいことだ。しかし、その人が残してくれた思い出や優しさを大事にしていかなくてはならない、と思う。別れても、心と心はつながっていられる。時として、その人を思い出し、時としてその人の愛を励ましとし、残された人は生きていくのだ。
先生も、あの若さで人生を終わらせなければならなかったのは、さぞ残念だったろう。本当に無念だったろう。全ての人に別れを告げなければならなくて、どんなにつらかっただろう。
私も、先生がいてくれたら、と数えきれないほどおもってきたけれど、その時は先生の笑顔や思い出、そしてドンマイという言葉を思い出して、今日まで生きてきた。
私たちが先生と出会ったのは、単に偶然ではなく、運命だったのだ。私はそう確信している。人は暗中模索しながら人生を歩いている。私にとって、裕子先生は光のような存在である。今も、そしてこれからも。
先生が人生を締めくくる時、「ドンマイ」と何度も何度も、か細い声で言っていたという。この「ドンマイ」という言葉は、先生が私たちに残した最期のメッセージだったのではないか、と思う。だから私は、先生が教えて下さった数え切れないことこ共に、「ドンマイ」という言葉を支えに「七転び八起き」だろう人生を送っていきたい。
時折、澄み切った青い空の向こうから、先生の笑顔と共に、「ドンマイ」というやさしい声が聞こえる。先生は今もなお私の心の中で鮮明に生きている。
先生、ありがとう。
二〇〇五年八月、青い空からドンマイが聞こえた日に
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二〇〇五年度読売新聞全国小中学生作文コンクール県最優秀賞 中村瑞希さんの作文を承諾を得て掲載



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