エッセイ

再会

長野に住む、20年来の付き合いの友人が癌になり、闘病生活をしていた。
昨年末からは入院して、抗がん剤治療などを受けていた。
コロナ禍で家族はあまり面会が出来なかった。

花
本人は編集者ということもあり、病床から秀逸なブログを発信していた。
病気は容赦なく進行している様子だったが、前向きに闘病生活を続けていた。
しかし、決意して退院した方がいい時期を迎えていて、私は強く背中を押した。
幸いなことに、20年前から縁のある緩和ケア医師が、長野市で働いていて在宅ケアを引き受けてくれた。
友人の住まいは戸隠の近く。七曲という難所を運転して往診してくれる医者と訪問看護師たちには感謝しかない。
ゴールデンウィークにはお見舞いに行くと私は決めていた。電話の声も元気だった。
しかし、26日火曜日の早朝、奥さんから「危なくなった」とメールが入った。
「会いに行く」と決めた。
甲府から電車で行く。特急あずさで松本へ。松本から篠ノ井線で長野市へ。
そこからは車の迎えがありそうだった。
乗り換えはけっこうな待ち時間があるが、急ぐよりいい。何しろ、久しぶりの旅だから、私も動きが鈍い。
おまけに、兵糧攻めに(笑)備えて、水やおむすび、おやつなどをたくさん買い込む。
待ち時間用の本など、手荷物は膨らみ、重い。
あー、身も軽く旅をしたいもんだ、といつも思う。
かつて、映画「ツーリスト」で、アンジョリーナ ジョリーが(諜報部員役)
パリのカフェで連絡を受け、ちいさなクラッチバックひとつで、ヨーロッパ特急に乗り込み、ベニスを目指す。
「すごいな、その身軽さよ、」と憧れた。
閑話休題。

小淵沢あたりから、車窓の風景は高原の空気をまとい始めた。
コロナ禍前は、全国へ講演旅行に行ったもんだった。
ずっと昔のような気がする。ボーと風景を見る。
姨捨あたりから見る千曲川や棚田も懐かしい。
友人の奥さんからは連絡がないから、まだきっと大丈夫。彼はまだこちらに居る。
友人には、私の本をいくつか作ってもらった。代表作もある。
「あした野原に出てみよう」
クリエイターとして、深い力と美意識を持った優しい人だった。見かけはちょっと熊のプーさんみたいだったけど(失礼)私の子供たちにも優しく付き合ってくれた。山荘のようなおうちにも家族で泊めてもらった。そんな夏の日々が甦る。

家に到着。実はハンカチを用意していた。
昏睡の病床で大泣きするのでは、と思っていた。
遅くなりました!、そう言ってベッドに近づくと、予想していたような安らかな眠りの中ではなかった。
目は開いているけれど、もうこちらのことはあまり分からず、呻吟していた。
私は安らかな旅たちをサポートする医者だ、もう30年も頑張ってきた。ここで役に立たなくて、どうする!泣く暇はない!
腕まくりの気持ちだ。助産師なら、出産の現場に飛び込んだ時の気持ちと同じだろう。赤ちゃんはこちらの世界に飛び出す。亡くなるのは向こうの世界へ飛び出す、こと。仕事は似ている。
楽になるように医療的に工夫した。(ここでは細かいことは言わない。)
少し落ち着いた。
本人に伝えた。
「もう、向こうへ行ってもいいね?」
このフレーズだけ聞いたら、なんと残酷な医者だろうかと思うかもしれない。
奥さんは、背骨がビシッとした、と言った。向こうへ行くという大仕事を支えるということがわかった、と。

在宅の医師も来てくれて状況を確認してくれた。
奥さんは言った。
「在宅での1ヶ月は宝物です。そして、この看取りの時間も。私のこれからの人生を支えてくれます。」

翌日のお昼前、彼は旅たった。
ちょうど、私が電話をかけた時、息を引き取った。離れているけれど、そばにいるような気持ちになった。