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去りゆく命にありがとう

110322_03.jpg(じべた 2011年第36号掲載のインタビューより)
幸せな最期を迎えるために。
二十年前、日本にはまだなかった在宅ホスピスを始めた医師
内藤いづみさんは、死に方は、どう生きたかの集約だと語る。
常に命と向き合う医療現場の声をうかがいました。


進歩する医学が生死観を変える。
 在宅ホスピスとは、死を遠くない未来に迎える人に対して行うケアを在宅で行うことです。 
現在では、先端医療で癌の治療が上手にできるようになり、緩和ケア病棟に行く期間が昔よりすごく短くなっているんです。ギリギリまで治療して、家に帰っても一目とか二日ということも。ケアする時間があればいろんなライフレッスンをこなして、自分らしさを発揮できるんですが、本当にかけがえのない時間なのに、患者や家族の皆さんは、いきなりそうした現場にのぞむわけですから、混乱します。公的な病院は助からないレベルになった命に、ドライです。
 昔、末期の人が痛みを放置され、すごく困っていたことに私も怒りを感じて、「宙に浮く末期癌患者」という論文を書いて、それをなくそうと啓蒙してきましたが、今またさらに違う種類の癌難民、宙に浮く進行癌患者さんが日本中に出てると思います。
 収支決算での医療だけを求めていたら、絶対にこぼれ落ちてしまう人が出るし、救えない人がいる。でも困っている人を救うためなら、赤字でも国民は文句を言わないと思います。
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 やっぱり人を救うんだ、本当に困っている人を助けるんだ。というのが、私たちの仕事の源なので、そこを否定されてしまったら医者をやっている意味がないと思うんです。お医者さんたちも心が疲れて、病院では看取ることさえ十分にできません。結局私たちがこの五十年、死生観を作って来ないで、命について正面から考えずに受動的に生きてしまったことが一つの原因です。
 東京は本当に一人暮らし、孤独な老人が多いんです。山梨でもそう違わないと思っています。だから、今までの時代とは命の支え方が違うんだっていうことを、みんなが気付いていくことが大事なんです。
社会全体で看取る学びを。
 熟年やお年寄りも、自分に何かできるかを考えなければ、若い世代が支えきれないし、非常に心が荒れた関係になってしまう。やっぱり、思いやりを持って老人や病気の人を支えるためには、老いた方も自立する強さを持つことが大事です。どんなに命が短くても人間は成長できるものです。
 終末医療の現場で私たち医者は、患者さんがいかに大往生されるか、常に考えています。社会全体に命を看取る学びがあれば、家族も救われますし、豊かな最期が迎えられます。
 命の最初と最後は同じだと思っています。お家で赤ちゃんを産まない時代と、病院で死を迎える時代は全部平行しているんです。「お産を考える会」で何回か講演させて頂いたら、お腹の大きいお母さんたちが「死ぬ話」を聞きに来ている。自然のお産を支えるお医者さんと、自然の死に方を支える私とが対談すると、すごく気が合うんです、全然違和感がない。私たちコインの裏表の仕事なんです。私か人を看取る映像を、お産をするお母さんたちに見せたら、感想文に「私が赤ちゃんを産む時と同じでした」って、「みんなで声を掛けて、みんなでさすって、みんなで大丈夫だよって言って、こちらでは赤ちゃんが出てくる、そちらでは亡くなっていく、先生の言う通りですね」って。現代は、そうした大事なところが全部抜け落ちた社会となってしまっています。
 死というのは、命の一部で生まれた時から、ずっとの命の向かい合い方なので、死だけが良くなるわけがないです。ちゃんと生まれて、ちゃんと子どもを育てられて、ちゃんと命に大人が向き合える。その先に死があるんですから、死だけ尊厳があるなんて甘いと思います。生きるのだって大変なのに、死ぬ時だけ「先生、天国のように死なせてください」って、「ええ?ちゃんと生きてきた?」って(笑い)。甘いと思いますね。
 やっぱり、今の社会は大いなるものへの畏怖というものに鈍感になってきています。自然を含め、いろんなものに対する恐れとか、人間にはどうにもならない、大いなるものがあるんだってことが、日本人の一番大事な心として伝えられてきたのに。それが今、途切れつつある。
 急速に発達したインターネット社会では、若い子たちは本当に脳がむき出しになって、二十四時間脳同士でラインが繋がっているような状態です。私の小さい時は、子どもはだめなものはだめと、守る時代だったのに、今はすべてにさらされて、子どもとしての大事な時間が抹消されるかもしれない時代になりつつあります。
去りゆく命への思い、大切に。 
昨年成立した臓器移植法改正については、十分に論議されず残念でした。日本は非常に技術もあるのに、世界と比べて臓器移植の数が少なく、助かるべき人のチャンスを奪っているという意見に押され改正されたように感じます。私は、死に逝く人のサイドに立っているので、末期癌で助からないという人でさえ、一分でも一秒でも生きていてほしいと願う家族の悲痛な思いを知っています。
 命の現場にいる私たちは、どうやっても割りきれないんです。このお子さんを救うためには、こっちで命を亡くすお子さんの親がいて、「もし助からない命なら、こちらに命のリレーをしてください」っていう命に対する謙虚さが何より大切ですよね。臓器移植の現場としては、非常につらい数字的な祈り合いをつけなきゃならないんです。
もうちょっと頑張れば、命が延びる、でも物理的に完全に死んでからでは、臓器は良い状態ではないわけですね。
臓器移植法にとっての死を宣言するわけです。だから、その時の医者はすごくつらいし、看取る家族にとってはさまざまな後悔が出ますよね。治療を一生懸命している傍らで、脳死を判定する、しかも、日本ではそこに宗教者がいないわけだから。アメリカだったら必ず神父さんとか牧師さんが、グリーフケアをしてくれるんですけど、日本ではそれがない。だから、送られる人を支える人が必要です。
 命が終わる時ってやっぱり、不思議な世界ですよね。本当に三途の川まで行って戻って来ちゃう人もいるんですよ、臨死体験っていうのかな。もう瞳孔が開いてしまって、脳死判定したら、脳死かもしれない。それでもし、その人が臓器をあげてしまったら戻って来れないですよね。だから本当に脳死に近いところって微妙なんですよ、難しいですね、私は割りきれない思いです。
ほっといて三日で亡くなってしまうんだったら、その大切な三日間を、これから生きる人にプレゼントしますと、そういう思いで臓器を差し上げられたらいいですけど、決断をする時って、だいたい尋常な精神状態じゃないと思うんです。後で後悔が少ない、残された人たちを支えるシステムを、考える必要がありますね。
宗教者の役割に期待。
 看取りの後の医療現場も今、すごく激変しています。都会では病院からそのまま焼き場へ直送とか。宗教的な仕事をされている方々は、暮らしの中で、人との関わりを増やす、命のネットワークのリーダーになれる方たちです。
人々の幸せな最期のための働きをぜひして頂ければありかたいですね。宗数的に鈍感なまま生きてきてしまった方々の命の最期の場面で、医療者がこれは宗教的ではないかなと感じるようなスピリチュアルな分野のサポートを今はせざるをえません。
そこに宗教の専門家の方がいたら、訪問看護師さんとか、現場で命の苦しみに関わっている人たちが、すごく救われると思います。だから私たちのケアのためにも、宗教者の方が入ってほしいと思うし、耳は最後まで聞こえているから、自分が慣れ親しんだ宗教者が、その後の家族のことも含めて「大丈夫だよ、安心して往生しなさい」って言ってくれたら、本当に命の間際で安らかになれると思うんですよね。
だから、日本人の心が完全に荒廃する前に、宗教者には頑張ってほしいと思います。まだ、間に合うと思うのです。