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「縁を結ぶ」ということ

(地べた2018年1月号より)
永さんがなくなって一年以上が過ぎた。
ご縁を頂いたのは20年近く前。振り返ってみると、その時永さんは、60歳。私が40歳。私には永さんは『自分の価値観、美意識が高く辛口で物言う人、日本の文化を応援する人、旅する人、江戸っ子、天才、ベストセラー作家、マルチタレント、私の母も大ファン』そういうイメージだった。

私はイギリスでホスピスケアを学び、故郷の山梨に戻り、3人の子育てをしながら、あまり実践する人も見当たらなかった〝在宅ホスピスケア″にひたすら取り組んでいた。なぜか取材を受けたり、講演をすることは多かった。松本の革新的な僧侶 高橋卓司さん(彼は永さんと親しかった)と知り合い、彼から私のことが永さんに伝えられ、お会いするチャンスが甲府で与えられた。永さんとご縁のある人物が山梨放送にいて、永さんは山梨放送をとても大切にしていたので、よく甲府にいらした。ドキドキして会ってみると、永さんは自信に溢れ、怖いものなどないような強さを持ち、大きな人だった。真っ直ぐに相手の中身を見抜く人だった。私の話に大笑いした。私の置かれている状況を一瞬でわかって下さった。「応援するよ。結ばれた縁はほどかない。ずっと、一生」そんな握手をしたように覚えている。以来、ずっと私の応援団長になって下さった。

15年前、私の書いた本にこんな前置きを書いて下さった。(一部抜粋)
内藤いづみ医師を見ていると、日本の医療が見えてくる。
彼女が在宅ホスピスという医療現場で働いている姿には頭が下がるが、それが日本の医療の中では異質であるということに問題がある。
日本の医療は生命を正面に見据えていない。
見据えているのは「生命」ではなく「病気」であり、患者の表情ではなく検査によるデータである。
生きようとしているのが患者であっても、生かそうとしているのは「病院経営」。

内藤いづみ医師を見ていると、日本のボランティアが見えてくる。
山梨県県甲府市における彼女の医療活動は多くのボランティアに支えられている。

内藤いづみ医師を見ていると、日本の家族が見えてくる。
イギリス人の夫と小学生から高校生までの3人の子供が支えているところが大きい。
彼女が一人で在宅ホスピスに駆け回っているのではない。家族の応援を受けているのだ。
家族に感謝している医師を見つめ、患者の安心感はさらに広がる。

内藤いづみ医師を見ていると、日本の地域社会が見えてくる。
地元で働く医師であるのだけれど、このところ日本中で引っ張りだこである。
一方で、甲府では目立った存在になると、そのことをよく思わない動きは当然出てくる。
地域社会では、目立ってはいけないし、目立ってしまうなら反感を持たれない根回しもしておかなければいけない。そこが悩みだ。

内藤いづみ医師を見ていると、日本の未来が見えてくる。
多くの女性医師、女性スタッフが保守的な日本の医学界に風穴を開けつつあるという実感。そこにこそ「最高に幸せな生き方と死に方」がある。
宗教的には神道の彼女が、仏教徒、キリスト教徒にさしのべる手。
そして彼女を孤立させないようにするという支援の輪。
この本がさわやかな甲府の風となって全国に吹き抜けますように。
内藤いづみ医師を見ていると……。
山梨県が女性の健康長寿の一位だということがよくわかる。

権威的な行為をきらい、いつも庶民の味方だった。たくさんの人脈を持つ人なのに決して威張らず、なぜあんなに庶民の悲しみ、喜び、困難さに心を寄せることができるのか不思議だった。
それは、永さんの感性の賜物。だから、旅をし草の根の〝いのち″の声を聞き続けたのだと思う。
〝いのち″は傍にいき、触り、〝ギュッ″と抱きしめないとわからない。
私はそう永さんに教えてもらい、在宅ホスピスケアの実践を今も続けている。
永さんとは、互いの忙しさの合間をぬってご一緒に講演旅行をした。連絡は全てハガキ。体調の悪くなった晩年も、北海道旭川、福島市、福山鞆の浦、笠岡など、私が医者だからご家族が許して下さり旅をした。
お亡くなりになる2週間前、永さんと長いご縁のある小林啓子さんというフォークシンガーとご自宅に初めてお見舞いでお邪魔した。
永さんの博学を支える図書館のようなご自宅。
その時永さんは深い眠りの中にあり、どんなに揺すっても目を覚まさず、言葉を聞くことはできなかった。永さんの晩年は病とともにあった。20年前の怖いものなんか何もないという威風堂々の永さんも近寄りがたくすてきだったが、病を得て、体力を落とし車椅子の大変さも味わい、看護や家族のケアに支えられながらいのちを学び、ラジオも続け、生き抜く永さんの姿は更に深く深くすてきだった。
「永さん、色々ありがとうございました。今日は失礼します。さようなら」
そう耳元で大きな声で告げた時、眠っていた永さんの目が一瞬開き、口角が上がり、満面の笑みになった。言葉はなかった。しかし、
「聞こえているよ。僕は大丈夫。どこも苦しくない。痛くない。すてきなところにいる」
そう聞こえた気がした。
あゝ、永さんはもう苦しみのない、涅槃(ねはん)に近いところに立っているのかもしれない、と私は思った。
その時が 永遠の別れだったけれど、永さんの安らかさを頂いて、私は安堵して帰路に着いたのだった。