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家での看取り ~自分、人、そして神と和解する場~

川越 厚先生との対談。(あけぼの2014年11月号より)

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家で最期を迎えたい……
内藤 甲府市で、社会制度になる二十五年前から、ホスピスケアの啓発、文化活動もしながら行ってきたのですが、この数年、ずいぶん変わりましたね。

川越 一九九二年に医療法が変わって国が在宅ケアに大きく舵を切り、この間にすごく変わりましたね。

内藤 国が本腰を入れ、医師会、病院、臨床医がそうせざるを得なくなりました。今は皆システム化、ネットワーク化して、家にいることを選ぶ患者さんの個人の選択肢は抜きで。

川越 病院から追い出されて……。

内藤 お年寄りの生活が施設化しています。甲府は旧舎で同居率も高く、都会よりは住宅で看やすい住環境の方が多いと思いますが、それにもかかわらず介護保険導入で、外部の力でサポートしてもらうようになり、お年寄りが家に戻るのではなく引き続き施設に入れられます。

川越 高齢者には、国は在宅を勧めていますが、実際には家ではなく施設が多いと?

内藤 統計的には在宅と言っていますが、実際は自宅ではないグループホームなどの在宅系の場所が増えています。

川越 グループホームは在宅にカウントしますからね。

内藤 家族の力で支えていく学びが、私たちを支えてきましたが、いのちに向き合う力が、薄れてきたように感じます。本来の意味での在宅の数はここ数年減っているようです。

川越 それは先生のところで減ったのか、それとも現象でしょうか。

内藤 この前親しい医師仲間に聞いたのですが、数日ぐらいを家で死なせようと病院から帰す。以前のように二か月、三か月在宅で支える患者さんが減った、と。在宅医療をする先生が増えていますが、よかったね、というような最期の看取りは減っていると思います。

川越 別の言い方をすると、質がどれだけ保証されているかという問題だと思いますね。

内藤 家庭だと家族と一丸ですから、例えばモルヒネの薬を使うにしても、家族と相談しながら家族が責任を持って私たちもできましたが、今はその老人施設やグループホームで家族の姿が見えないお年寄りが多いのです。二年三年という単位で一番そばにいるのはケアマネージャーさんで、その人たちの責任は重いのですが、だれに責任を持ってもらうのか、だれと話し合えばいいのか……これは日本中で起きている現象だと思います。

川越 今まで例えばいのちを預かるとき、本人ができなくなったら、家族がある意味で責任を持ってくれました。その家族の姿がなくなり、家族以外のところにバラバラにされていて、そこでだれがその人のいのちの良任を持つのかが明らかにならなくなったということですね。

内藤 例えばイギリスのように、子どもたちと住まないという前提があれば、お年寄りもかなり自立心を持って暮らしていけますが、日本はまだ端境期というか最終的な責任は家族にあるので、血のつながらない甥や姪……後見制度も日本はまだあやふやで、だれが責任を持つのか?

川越 在宅ケアには家族の存在が必要だと一九九一年に、日本で最初の在宅ホスピスの教科書を書いたときに指摘しました。そのころは家族がいない方の在宅での看取りは不可能でしたが、二〇〇〇年に介護保険ができて、家族がいなくてもできる、ただし家族の同意がいる。本人が家にいたいという希望に沿う、と、だから家族の介護力は、ぼくは今もう問わないようにしていますが、これから高齢者がどんどん増えていく。それに伴ってがん死も増えていく。このへんの問題をしっかり整理しないと、今ある意味での混乱、カオスの状態になっていますよね。

内藤 後見人制度も日本は進んでいなくて、あやふやになっていますね。死を迎えているお年寄りの家族の姿が消えていることが多くなりましたので、施設のスタッフの方たちのクオリティは非常に大事になりますね。どういういのちの哲学でその施設を運営しているのか。

川越 これから病院の入院適応がない方はどんどん地域に帰ってくる。それをどこで受け止めるのか。今は在宅医療を行う医師やチームが、やれるところだけやって、できなくなったら病院の先生に考えてもらう、というのが流行っていますね。点数が高いこともあり、臨床能力が不十分な、数年だけ医療に従事した人が在宅に入っています。これは日本の将来を考えてもよくない事態です。病院がないとできないような在宅医療チームを増やしていこうとしているのか。病院の力がなくてもできる、そういうものを増やしていくのか。これが問われています。

内藤 在宅医療の厳しさが分かっていない……。

川越 ホスピスケアは、死の場面における看取りの緩和ケアですが、患者さん自身の鎖を外していく作業なんです。それは進む医療、たとえばがんが見つかったときにどういう治療をするのか、ではなく、治療が終わった後にどういうフォローをするのかということで、そういうことを徹底して知っていないと、退くということができなくなりますね。

内藤 医学部の教育が足りないのでしょうか。

川越 そうではなく、それができない医師が在宅でがんの方を診ていることが不幸なことだと思います。がん対策推進基本計画が出て、どの先生も在宅でがん患者を診ることができるように勧められました。私たちのようながん患者に特化した在宅のチームを日本に増やそうという考え方はまるでなく、むしろ特別なチームしかできないような医療は否定して、どの先生でもできるようにしようと国を挙げて推進しました。結果的にどうだったか。そのような気持ちも力もないチームが、人のいのちを最期まで預かることはできないことがはっきりしました。例えば二十四時間ケアをしている、と言いつつ、看護師はその地域から一時間半かかる所に住んで通っている。緊急でも電話は通じるけど、行けません、と。これでは患者さんのいのちは支えられません。そしてがんの方と非がんは違いますし、認知症の方も増えていて、これはむしろ福祉の力が問われる。一緒に論じることができないし、視点が間違っていますね。そこをしっかり整理して、効率的に、しかも高質のサービスを提供する。

内藤 ホスピスケアの神髄を抜きにした方たちが、国の方針で、点数がつくので患者さんを診て、困ったら病院に入れる。私たちにしたら、最期のときが来ているのに、なぜ病院に入れるのか。あと一息、皆で支えていけば家で看取れるのに、と思うのですが、これは山梨ではないのですが、ついている看護師さんたちが、「先生、怖くて見れないんです」と。

川越 そういう医療経験がないですからね。病院医療では、そのような場合は何もやることがないのです。つまり最期の看取りの経験がない人が家で看ようとするのですから、無理ですよね。家での看取りは、周囲の同意、納得がないとできないのですが、そこを理解していない。
がんで亡くなる方は年間でおよそ三十万人。ならばその方たちの二割を在宅で診るとすれば医師の数は何千人でなく百人くらいです。そのチームを地域でしっかり育てたら、がんの問題は解決します。難しいのは認知症や、がんではない高齢者の方をどう診ていくか。これが難しい。医療というよりもトータルとして人間を支える。いわゆる二〇二五年問題で、福祉を充実させる。特に非がんの方ですね。医師の出番は少ないですから。言い古されて
いますが、がんの方は医が主、非がんの方は福祉が主。そのことを肝に命じて計画を立てていかなければ。

内藤 ケアマネージヤーさんもそこを学んでいただかないと、非がんの方のときは中心になって動いていいのですが、そこにがんの方がいた場合、ケアマネージャーさんが中心で動くと混乱するときも……。

川越 病院から地域に帰るときに、介護保険でのケアマネージャー、介護支援専門員は、昔は多くの場合、看護師など医療者がなっていました。今はそうではない方が入っています。病院から戻って一週間以内に亡くなる方の準備は医療の知識がないと無理です。でも医療職でない人たちが采配をふるいます。どういうことが起きるかというと、患者さんが苦しんでいるのに在宅医療を入れないで、まず自分たち福祉職だけで看ようとする。できなくなってぼくらの所に来る。医療者が入るまでにものすごく時間がかかっている。もっとひどいのは、医師が知らないうちに入院などを勝手に決める。

内藤 事後報告ですね。

川越 在宅医療はトータルケアでチームの力が必要で、医療職だけでも、福祉職だけでもできない。そういう医療ですが、今の制度は福祉職だけでできるような感じで、患者さんも我慢し、医療者も我慢しながらやっていますが、もう限界で抜本的な制度の見直しが必要ですね。

内藤 がんの方の一ヶ月はすごい変化で、症状コントロールして安定していても、下り坂になったという感触があると、そこは戻れない坂で、その1か月。
一か月半では介護認定しても通らないんです。そこの急スピードのところをどうやるかが苦労するところですね。

川越 そういうのは実際見た医療者しか分からないんですよね。

暮らしの中で迎える「死」

内藤 ところで、先生は信仰をお持ちですが、これまで長い二十四時間責任体制の医療をなさって、体を壊しそうになったことはありませんか。

川越 ないですね。心臓が止まったことはありますが、過労が原因ではないです。

内藤 私は去年六月に体調を崩しまして、更年期の変化もあると思うのです
が、体験したことのないひどいめまいなどもあって、一週間入院して点滴だけで過ごしました。

川越 それは働きすぎだという先生の評価、診断ですか?

内藤 長年の積み重ねもありましたから。

川越 確かにこのホスピスケアは人の死と真っ正面から向き合う医療ですね。それは精神的に強靫とかということを超えています。なぜ、今まで二十五年間、一貫してこの医療をやってこれたのか、しかも毎年百人以上の方、トータルすると二千人ぐらいのがんの方を家で看取っています。全部自分で最初の相談を受けて、亡くなる方の八割、九割に自分で死亡診断に行きます。なぜそういうことができたかというと、一つは自分だけでやらない。看護師さんたちがチームですべてやってくれる、もう一つ自信が持てるのは、いいケアを提供できたからだろうと。亡くなったときに、患者さんのご家族とわれら一緒に、よかったねと言い合える。今日も死亡診断に行ってきた、診断がついてひと月で亡くなられた方は、最期は玄関入ったすぐの土間のところでお亡くなりになりました。そこが涼しくていいと言うので、枕を持って行って、奥さんが見ているところで息を引き取られました「そういう充実感と、我々自身の納得がなかったら、この医療は続かないと思いますね。

内藤 私は体調を崩して、仕事の量も減らして、ボッボツ仕事をしているなかで、大親友のがんを発見しました。いろいろ事情があって手遅れになり末期がんになって、頼まれれば家で看取りたかったのですが、それができず、緩和ケア病棟で亡くなりました、いろいろな最期に出会ってきましたが、今回は二人称の死ではなく、親友という一・五人称の看取りで、今年の三月はつらかったですね。

川越 よく分かります。親しい方の死に、自分が医師として関わるのは、残酷なことだと思います、ぼくもある時期に三人の非常に親しい方の死にかかわりました。在宅医療で三人とも亡くなりましたが一人はおじで非常にぼくをかわいがってくれた人。もう一人は、小学校のころからかわいがって あいただき教会音楽を教えてくださったオルガンの先生、そして大学時代の最大の親友の奥様で学生時代からよく知っている方。同じ時期でもありましたし、ほんとに消耗しました。でもこれはホスピスケアの限界ではなく、個人としての限界ですね。

内藤 家で看取るのは、それぞれが自分の距離でいのちに向きあって、気づきがあり、成長していく。私たちもそれを。一緒に学ばせてもらい成長していく。病室では周りのものは手を出せません。最終的に家族も死が怖くなって近づけなくなるように見えました。親友に最期まで付き添ったのは実のお母さんです。最後の一週間、セデーションという鎮静をするかどうかで専門の看護師さんと主任がいらした。どうして鎮静を私の親友にしたのかを聞くと、教科書的な答えで、耐えがたき痛みに対する最終的なものだと。うとうとしている本人に、苦しさは取れたかと聞くと、ボーツとした中で「取れてない」と。
この世からあの世に脱出するときの苦しみは、薬では消えないと思います、病院では私たちが見てきたいのちの看取りと、質も方向性も違います。

川越 在宅のよう、自然さをあらためて思いますね、ぼくらが作る医療環境ではなく、本人たちが作る環境ですから。緩和ケア病棟は医療側が作っているので、不自然がありますね。

内藤 死だけが非常に強調されますから。でも暮らしの中では怖くない、いくら死にかけた人がいても、でも病院では愛する人でも家族にとっては怖くて、そばに寄れなくなってしまう。

川越 セデーションというのは、やはり薬での束縛です。文句言わせなくしますからね。

内藤 それをすると楽ですよ、周りは。

川越 一見すると苦しくないように見えますが、しゃべれなくするわけですからね。

内藤 楽ではないと言えないのです。だれが楽かといったら診る人と家族です。

川越 眠らされて苦しみを言えなくするのではなく、実際に苦しまないで、お迎えの時を迎える。ぼくはセデーションはめったにしません。

内藤 私もほとんどしないですね。

川越 死をどのように考えたらいいか……ぼくは四代目のキリスト教徒です。ひいおじいさんが新島襄の弟子で、徹底してキリスト教のものの考え方が身についていました。ただ、最近疑問に思うようになったのは、キリスト教の考え方は生と死をきっちり分ける考え方なのですが、いろいろな人の死にかかわっていると、日本的な死生観にぶつかります。
つまり、目の前で息を引き取り、心臓も止まって死ぬ。でも死んでもその方はそのへんを彷徨い、四十九日彷徨った後で向こうへ行って、年に二回帰ってくる。
この考え方はキリスト教には絶対ない。でもいろいろな方の死を見ていると、日本的な死生観のほうがあっているのかな、と思います。

内藤 キユーブラーロスの影響もあってチベット死者の書に興味があります。
生と死が裏表というのか 私は子どもが三人いますが、子どもは産道を通って生まれてくる。お産はいのちをかけた営み。チベット死者の書でも四十九日、お坊さんが読経してやっと向こうへ行く。産まれてくるときと死にゆくときの通過道(トンネル)が共通している気がします。そこをうまく潜って天国に行き、極楽や西方浄土に行く。
これが個人的な感触です。そのときになるべく医療的な力で苦しい思いは緩和して、できれば安らかに離陸にしていただきたいというのが私の願いです。

川越 在宅ケアの本質的なところは、人と人との和解、自分との和解、神との和解。宗教的になりますが、そういうものが根底にある。それができるのが「家」のいいところだと思います。

あけぼの2014年11月号より