ホッとらいふインタビュー

子どもにとって、母親は特別な存在です。
父親の愛情とは異なり、無条件に深い母の愛は、母性の発露というよりむしろ、生命の根源に関わる神々しさすら感じられるものではなかったでしょうか。
母からそんな愛情を受けて育った私たちが母親となって、そして思うのです。
「お母さん、私を生んでくれてありがとう」と。


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母と娘は同じ誕生日
内藤富士丸さんと内藤いづみさんには以前、それぞれに“ホッとらいふインタビュー”へご登場いただきましたが、お二人が親子であることはご存じの方も多いはず。そこで今回は富士丸さんといづみさんに、母として娘としての横顔を見せていただきました。
富士丸(以下敬称略)いづみの生まれた日は6月6日で、私の誕生日と一緒。私の代わりに生まれてきたと思いました。いづみの希望や目標が自分のそれとびつたり合って、まるで一卵性双生児のように心が一緒に思える子でした。
いづみ 母の持論は「何でも100回すれば物事はかなう」というもの。ものすごい集中力で何事も成し遂げてしまうんです。切瑳琢磨という言葉が大好きな母ですからね。孫たちはおばあちゃんのプレッシャーに負けないで、我が道を行ってますけど。
富士丸 孫たちには普通が一番と逃げられていますよ。私は普通じゃ満足できないんです。いづみたちにも社会に役立つ人になつてもらいたいと思ってきました。医者か弁護士にしたいと考えていたんです。この子はね、幼稚園の頃から抜きん出ていましたよ。栴檀は双葉より芳し、と言うでしょ。
5歳からクラシックバレエを習わせるために甲府まで通わせていたんですが、付き添ってくれていた実家の母がよく言っていました。
いづみは目の玉が飛び出してしまいそうなほど先生を見つめてお話をよく聞いている、と。中学は山梨大学付属へ行かせましたけど、それもこの子の希望と私の希望がぴたりと合ってね。結婚だけですよ、私の希望と違ったのは。
いづみ 母の画策に乗って、3回ぐらいお見合いをしましたけど、向うから断ってきましたよ。皆、次にどこへ行くかも自分で決められないような人ばかりだったの。
母は私をどこかの大病院の御曹司と結婚させたかったんでしょう。
でもね、結婚するのは、何か生死に関わるような重大な災害などが起こつたときに、その人を信じて一緒に逃げられるような人でないとダメだと、学生時代から思っていましたからね。
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富士丸 ピーターさん(いづみさんの夫)はそういう人だと思ったわけなのね?いづみが外国人と結婚するなんて夢にも思っていませんでしたよ。だから結婚にはずいぶん反対しました。
いづみさんは男の子1人と女の子2人の母親となつた。中学3年生の末娘が富士丸さんに似た性格だという。
いづみ 人への気の使い方が西洋型じゃなく濃やかなんですよ。そういうところが母に似ています。
夫なんて、あっ富士丸さんがいる!つて言うもの。母や末娘は努力して自分の力で何とかできる人ですけど、それができない体質の人がいることを理解してほしいなと思います。できないことをじれったく思わないように、自分と違う人がいることを許容してもらいたいですね。
太い幹のような母の愛情
 いづみさんが高校1年生のとき、富士丸さんの夫・義太郎さんが亡くなる。
富士丸 夫を亡くしたときに店の改装が重なり、とにかく前へ進むしかなかったんです。従業員も大勢いたし、子どもも育てなければならないし、泣いているゆとりなんてなかったのよ。
いづみ 母のエネルギーがものすごいから、父が亡くなっても不安に思うことはありませんでしたね。子どもの頃はテレビを見た記憶があまりないんですよ。皆が忙しく働いているのに、奥でテレビなんて見ていられないでしょ。弟と一緒によく店を手伝っていました。だから、お金を稼ぐ大変さというのが身にしみてわかりましたね。
080510_004.jpg富士丸 いづみは義太郎さんに似ているんですよ。亡くなる前、夫は町の教育長をしていて、人前で話をする機会が多かったんだけど、それはそれは見事な演説でね。声もよくて、まるでJ・Fケネディみたいな語り口でした。いづみの講演の評判がいいでしょ。義太郎さん譲りだと思いますよ。県の教育委員長を受けたのも義太郎さん譲りの正義感からでしょう。
この子は改革を断行して批判されたりしていたけれど、批判するほうが悪いと思っていました。
いづみ 母親に無条件に愛してもらった記憶が、人生で何かにぶつかったときに乗り越える支えになるんだと思いますよ。私たちの母親の世代は皆、生きることに忙しくて、子どもをぎゅっと抱きしめたりというような手のかけ方はできなかったんじゃないかと思います。母の愛情も、1本の太い幹のような大きなものでした。
母の姿から学んだこと
富士丸 私は今、自分の母が亡くなった年齢を超えていますが、今でも母を乗り越えていないと思います。母は無学でしたけれど、どんな環境でも精一杯生きるということにかけて天才でした。世の中に残したものも大きかった。私はその母をいまだに越せません。
いづみ 母も今はこうして引退し、静かに日常を過ごしていますが、普通のおばあさんじゃなく、すごいおばあさんなんだってことは孫たちも理解し、一目置いています。母は広く世に知られているわけではないけれど、見かけの有名さなんかはハリボテに過ぎないんじゃないかしら。
富士丸 2人の子どもを授かった私の子育ては成功しました。成功の秘訣なんてものは取り立ててはありませんけれど、自分が意識せずに全てを精一杯やっていれば、子どもがその姿を見ていてくれます。
いづみ 母の働く姿から学んだのは、どんなにスタッフを増やしても自分の仕事を減らしてはダメということです。トップが自分の夢を再現しているわけですから、本人が一番がんばらないといけないですよね。私は人に使われる仕事を選びませんでした。給料をもらう仕事は楽だけれど、リスクを背負っていないから、言葉に重みがないんですよね。やはり自分で稼ぐことがないとお金の使い方も違うんじゃないかと思います。
富士丸 いづみは私がなりたかった職業に就いてくれました。洋服を選んでくれたり、いろいろ心遣いもしてくれます。娘を1人生んでいて本当によかったと思います。昔、私の結婚に大反対だった母が義太郎さんの家へ結婚前の挨拶に行ったとき「ふつつかな娘ですが、ということは申しません。どこへ出しても恥ずかしくない娘でございます」と言っていましたが、私にとってのこの子もそのとおりです。
いづみ 親子して母親の反対を押し切って結婚しているところは遺伝なんでしょうね。
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内藤 富士丸(ないとう・ふじまる)さん
大正11(1922)年甲府市伊勢町生まれ。甲府高等女学校、師範学校を卒業後、昭和16年中巨摩郡大明尋常高等小学校へ赴任。甲府女子高等国民学校在任中、甲府空襲に遭い、市川へ疎開。
峡南教職員組合の活動の中で、後に夫となる内藤義太郎氏と出会う。23年、結婚を機に教員を辞し、魚屋開業。29年、食料品店へ改装。41年、セルフサービスのスーパーマーケットを開店。58年、六郷町商工会初代婦人部長就任。60年、自民党山梨県連女性副部長就任。平成10年、50年間続けてきた店を閉店した。
内藤 いづみ(ないとう・いづみ)さん
1956年、山梨県市川三郷町(旧・六郷町)生まれ。福島県立医科大学卒業後、東京女子医科大学内科等に勤務。86年から英国のプリンス・オブ・ウェ-ルズ・ホスピスで研修を受け、95年に甲府市内で「ふじ内科クリニック」を開業。日本ホスピス・在宅ケア研究会理事。山梨県教育委員長在任中は県教委改革に真っ向から取り組んだことでも知られる。著書に『最高に幸せな生き方 死の迎え方』(講談社)、『あなたを家で看取りたい』(ビジネス社)、『あなたが、いてくれる。』(佼成出版社)などがある。
ホッとらいふ5月号 ホッとらいふインタビューより