ホスピス記事

いのちは希望にあふれて生まれてくる

2023年7月13日「生命尊重の日」の集い小冊子より。中村桂子先生と内藤いづみの部分を抜粋。

40億年もつながるかけがえのない命

JT生命誌研究館 名誉館長 中村桂子

毎日蝶やクモやハチ等小さな生きものと向き合いながら、いのちについて考え続けています。人間は40億年も続いている多様な生きものの1つなのに、現代社会では機械と同じように考えています。生きものは、当たり前ですが、いのちが大切です。ところが、今朝の東京新聞に「反出生主義」の記事が出ていて、「生まれなかった方が幸せだ」「子どもがほしくない」と考える人が増えているそうです。これは、やはり人間が生きものだということを忘れているからだと思います。
もう1つ、いのちは続くものです。40億年も続いている。いのちって何してるの?と言われたら、続こう続こうとして一生懸命生きているのです。まど・みちおさんの詩に、「生まれたての生命がかわいくてならなく思えるのは、かわいくてならなく思える目を私たち人間がもたされているから」という一節があります。私達は小さなものを「可愛い」と思う目を与えられています。与えられているのに、それを使っていないのが、今の社会ではないでしょうか。
私は生命誌の研究を通して「人間は生きものであり、自然の一部である」ということを考えています。今から4つのことをお話します。まずこの扇の形の一番上に様々な生きものが描いてあります。キノコもヒマワリもあり、イルカもゴリラもいて、これが生きもの達の世界です。名前がつけられているものは180万種類ですが、恐らく何千万種という生きものがいます。
2番めはそんなに多様ですが、全部DNAの入った細胞でできており、全ての生きものはたった1つの祖先から生まれたことがわかっています。それがこの扇の要で、約40億年位前のことです。つまり、ものすごく多様でありながら、みんな同じ所から生まれた仲間なのです。
3番めは、この扇はコンパスで書いていて、キノコも人間も最初からの距離は同じ40億年です。地球上にいる生きもの達は、全部40億年の時間を持っています。人間のいのちを奪うのは考えられなくても、アリをチョンとつぶすことはある。でも、そのアリも40億年続いてきている。人間は様々な機械は作れますが、アリは決して作れません。いのちとは「生まれてくるもの」です。あらゆる生きものは、40億年の時間があって、今ここにいるのです。
4番めは、扇の中での人間がいる位置です。人間もそういう多様な生きもの達がいてこその人間です。でも今の社会は、人間をこの扇の外の、しかも上にいると思っている。よく「多様性」と言われますが、上から見て「多様だね」と言っている。
そうではなくて、中にいて多様な者と共に生きる。人間の目は赤ちゃんや子ども達に対してもつい「上から目線」になりますが、生きもののことを考える時は、上から目線ではなく、「中から目線」で見るのがよいと思います。人間同士でも、他の生きもの達のことを考える時でも、いつも「中から目線」で考えることが大切だと思います。
この4つのことを考えて、いのちのことを考えると、いのちを大事にしないではいられないのではないでしょうか。生きにくいと言われる方、今の社会は「私」や「個」がとても大事にされていますが、生きものというのは、他のものあっての生まれてくるもので、作られたものではありません。作られたものなら1個はあり得ますが、生まれてくるものは1個だけではありえない。いつだって私は私たちの中にいるのです。
「私たちの中の私」を考える時、家族、仲間、学校、職場、日本人とありますが、「私たち生きものの中の私」をまず考えてほしいと思います。それは地球の中にいる様々な自然の中の生きもので、宇宙にも繋がっている。家族等を考えると柵(しがらみ)もありますが、そうではなく、まず生きものの中の私と考えると、扇の中にいる他の生きものも大事だけど、人間も大事、ということになります。
私達人間、ホモ・サピエンスは、別万年という時間をかけて、アフリカから出て各地で暮らしている。世界中の人のDNAの基本はみんな同じです。そんな仲間同士が戦争するなんてあり得ない。私たち生きものの中の私と考えると、たまたま一緒になった仲間や家族もこんな大事なものはない、と思えるのではないでしょうか。
人間が1番ではありません。
かつては「人間は高等生物だ」と言っていましたが、今の生物学では、全ての生きものが40億年を持っていて、高等・下等はありません。そうすると、すべての生き物に共感する。人間の中の多様性など当たり前です。
多様性とは、大事にしようというものではなく、多様でなかったら生きものは続いていません。人間は生きものですから、多様あっての存在なのです。まど・みちおさんに『ぼくがここに』という詩があります。

ぼくがここにいるとき/ほかのどんなものも/ぼくにかさなって/
ここにいることはできない/もしもゾウがここにいるならば/
そのゾウだけ/マメがいるならば/その一つぶのマメだけ/
しかここにいることはできない(中略)
どんなものがどんなところに/いるときにも/その「いること」こそが/
なににもまして/すばらしいこととして

多様なものがたくさんあり、その中に私が1人、私たちの中の1人としています。それは、1人ひとりがいること、1つぶのマメがある、ゾウがいる、その「いること」が大切なのです。
何かができる、何かをやった、偉くなったという問題ではなく「いること」こそが大事なこと。
それが、この扇の絵の中に描かれているいのちなのです。このような広がりの中で人間のいのちを考えると、胎児まで含めた、授かり生まれてくる赤ちゃん、続いてゆく赤ちゃんのいのちの大切さが、心の底からわかるのではないかと思います。

いのちは希望にあふれて生まれてくる

在宅ホスピス医 内藤いづみ

私はいち臨床医ですが、山梨県で30年以上、在宅ホスピスケアに取り組んでまいりました。
エリザベス・キューブラー・ロスという、「死ぬ瞬間」という本で世界中に衝撃を与えた女医さんがおられます。「ダギーヘの手紙」は、キューブラー・ロス先生が、ダギーという10歳で脳腫瘍を患(わずら)った男の子の「いのちって何?」「死って何?」「なぜ小さな子ども達が死ななければいけないの?」という問いに答えた絵本です。
その絵本は、いのちはたんぽぽの種のように、風に舞って地面に落ちていく。そして落ちた所で発芽する。その落ちた場所によって、お金持ちの家に生まれる子もいれば、貧しい家に生まれ捨てられる子もいる。それは一体なぜ?という問いから始まります。
私は若い頃イギリスに渡り、80年代のホスピスムーブメントに身を置いてホスピスケアを学びました。しかし、看取りとは医療的な事だけではなく、本人も、社会も、支える人も、医療者もみんな「いのちって何?」という社会的な学びが重要だというのが私の実感です。大切なのは、その人が受動的ではなく、自分の命の主人公になり得るか、ということです。
ある妊婦さんが「看取りの最後の、みんなで手を握り、背中を撫で『おばあちゃん有難う」と感謝する場面は、私が赤ちゃんを産む時、助産師さんや家族が背中や足を撫でながら、『頑張って産み出すんだよ」と言ってくれた場面とそっくりです」と言いました。私も本当にそう思います。生まれて初めて入るお風呂を「産湯」と言いますが、亡くなる時には「湯潅(ゆかん)」で身を清めて見送られるのです。
あるお母さんは、3人めを自宅で産む選択をしました。生まれたての赤ちゃんがお母さんのお腹に乗せられると、2人のお兄ちゃんが来て「いらっしゃい!これから仲間だよ」と妹である赤ちゃんに言っている写真があります。うちのナースは、いのちの最後を看取る仕事をした後に駆け付け、赤ちゃん誕生に立ち会えました。
あるおばあちゃんは、亡くなる2日前で血圧も下がり始めていましたが、入浴を許可しました。介護保険の入浴サービスは素晴らしく、お姫様みたいに大事に運ばれて、綺麗にして貰った時、おばあちゃんは「極楽」と言いました。私は孫達に「おばあちゃん、死んでからお身体綺麗にしても、極楽って言わないよ」と言いました。
その後、みんなで幸せなひとときを過ごしました。私やスタッフが疲労で限界の顔になる頃、反対にご本人やご家族はとても安らかなお顔になられます。おばあちゃんが死ぬことに打ちのめされていた18歳の孫も、おばあちゃんが旅立つ前に幸せに佇んでいます。家族の最期の支え方によって、死に際は天国と地獄のように違います。
ある方は末期ガンで認知症の症状もありました。私たちが一生懸命、「どうしたいですか?」と聞くと、「病院は嫌だ」と言われました。今は亡くなる直前まで、抗がん剤の選択肢がある時代です。もし抗がん剤を選ばずに家で亡くなられたら、家族は「やっぱり病院で治療を受けたらよかった」と思われます。
しかしこの方は、幸いにも2年間病院にほとんど通わずに、訪問看護や訪問診療を受けながら、家で好きな物を食べ、自分のペースで過ごすことができました。そしてターミナル(終末)をむかえました。
田舎の農家ですから、広いお家です。私は「おばあちゃんは、これから旅立つ準備が始まったよ」と号令を掛けました。それを聞いて子ども3人とその孫達が集まり、おばあちゃんを囲んで、色々な思い出を語り合いながら、合宿生活が始まりました。長年医者をしていると、この患者さんはもうすぐ昏睡状態だとわかります。キューブラー・ロス先生は「患者さんこそ先生だ」と言われました。それで、私は患者さんに「長い間私の患者さんでいてくれて有難う」「あなたと知り合えて幸せだったよ」と伝え、「私の先生になってくれるけ?」と甲州弁で聞いたら、「え、私が先生の先生?」
「大丈夫だよ、あなたにしかわからないことがある。今、どんな気持ちですか?」と聞きました。すると、息も絶え絶えに「先生、いつかはこういう日がくると知ってた。でも、それが今なんですね?」と言いました。平安時代の歌人の在原業平の辞世の句が『伊勢物語』に載っています。

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

1000年前の歌人の歌と全く同じことを、山梨の農家のおばあちゃんが最期に言ったことに、私は大変感動しました。
私もナースも、ジャージのような普段着で行きます。そして孫達を集め、「おばあちゃんは、これからあちらの世界に旅立ちます。でも、君達のおばあちゃんで幸せだったと言ってるよ。みんなもそうだよね?」「おばあちゃんが亡くなっていく姿は怖いけ?」と聞いたら、みんな「怖くない。だっておばあちゃんだもの」と。先ほど中村先生が仰ったまど・みちおさんの詩と同じです。
そして、最後にみんなで、おばあちゃんの髪を洗ってあげました。小学生の孫達が、笑顔でとりっこしてシャンプーをします。おばあちゃんは昏睡状態なので、頭を撫でられても何も言いません。生きているってことは、涙だけではありません。生きているってことは、喜びもあり、悲しみもあり、色んなことが混ぜこぜになったエネルギーの塊の時間なのです。
キューブラー・ロス先生は先ほどの絵本の中で「たんぽぽをとばす風を起こしたのは神様です」と言われます。私達も、風に吹かれてどこかに着地して、色んな環境で色んな試練や喜びも経験しながら、親とか色んな役割をこなしながら生きてゆきます。
私はいち臨床医でありながら、いのちから学んだことを、色々な方々や、若い人達に伝える役目を頂いているのではないか、と感じています。いのちに向き合った時、どんないのちも祝福の中で生まれ、去りゆく時は尊厳を持ち感謝して旅立てる、そういう社会のためにお役に立てるよう、これからも頑張りたいと思います。