ホスピス記事

最期まで自分らしくいられる人生の過ごし方


在宅ホスピス医が語る「最期まで自分らしくいられる人生の過ごし方」
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富士製薬通信 2007年9月号より抜粋
医療の現場にある患者さんのつらい死
在宅ホスピスケアを始めて20年になります。ホスピスケアとは、これ以上ガン治療の効果がないとわかった段階から、進行ガンの患者さんの体と心の痛みを取り除き、その人らしく最期まで生きられるようにケアすること。これを病院ではなく、自宅で行うことが在宅ホスピスケアです。
ガンにかかる、ガンで死んでしまうなんて、だれも経験したくないことですし、経験してほしくないものです。しかしいま、日本人の三人に一人がガンで亡くなっています。
ガンやガンによる死は、決して他人事ではないのです。
誰でもかかる可能性があるガンですが、どれだけ医学が進歩しても、みなさんのなかの「ガン=恐ろしい病気」という認識は変わりません。どんどんやせていって入院、検査を繰り返して、手術をすれば、術後は体じゅうにからまったチューブで自由を制限される姿を想像する人がたくさんいます。
本人が告知を受けていない場合は、孤独感、孤立感も深まります。自分の病気が何なのか、体の状態がどうなのかもわからないまま、病気が進行すればするほど家族も何を話せばいいのかわからなくなり、みんなが腫れ物にでも触るように自分に接するようになる。体の自由がきかなくなるだけでなく、周りの人との人問的なふれあいまでどんどんなくなっていくのです。
末期近くになると、昔でしたら入院で二十四時問点滴につながれ、自分で物を食べることもできません。さらに進行すると心電図のモニターがつけられ、鼻には酸素チューブ。尿が出にくくなれば尿管カテーテル。自由を奪われ、末期ガン特有の痺痛、薬の副作用などで心身ともに苦痛を味わい、そして最期を迎えるのです。
私は医者になったばかりの25年前、こうした場面に幾度となく直面して「こういうふうに自分は死にたくないし、家族もこういうふうには死なせたくない」といつも思っていました。ですからその後、イギリスでホスピスケアを知ったときは、ほんとうに救われた思いでした。
イギリスでまず感じたのは、医療者の患者さんに対する接し方の違いでした。病気を診るのではなく、患者さんを診る。病人ではなくひとりの人間として向き合い、その人らしい人生を送ることができるように支える。こういう医療があることを知って、ずっと感じていた患者さんの死に対する疑問を解決する答えが、ホスピスケアにあると確信しました。そして、「日本に帰ってホスピスケアを広めなければ」と思ったのです。
痛みがなくなれば笑顔が戻る
在宅ホスピスケアは、いままでに何度かメテリアで取り上げていただきましたが、ご覧になった皆さんが、患者さんがとても明るく穏やかであることに驚かれます。それまで見たり聞いたりした末期ガンの患者さんの姿とは程遠いというのです。
ホスピスケアの基本は、患者さんの体と心の痛みを取り除くこと。体の痛みを取り除くひとつの方法として、モルヒネなどの麻薬性鎮痛薬があります。ガンの痛みは壮絶で、放っておくと食事もとれないほどの苦痛が一日中つづいたり、激痛で何日も十分に眠れないといったこともあります。まさに地獄のような痛みですから、残り少ない日々を穏やかに過ごすことなんてできるはずがありません。
でも、鎮痛薬で痛みが取れれば、それまで「すぐにでも力尽きてしまうんじゃないか」と思うほど苦しんでいた方に笑顔が戻ったりするのです。自宅でご家族と食卓を囲むこともできますし、趣味の時間を過ごすことだってできます。10年以上前、私たちの在宅ホスピスケアを受けた患者さんで、こんな方がいらっしゃいました。
その患者さんは、乳ガンの手術を受けて、痛みと苦痛に耐えながら抗ガン剤の治療をすすめていたものの、再発してしまったんです。通っていた病院からは「違う抗ガン剤にしましょう」と言われたそうですが、よく聞いてみれば、抗ガン剤治療をした場合と放っておいた場合の余命は同じくらいだと。それを問いて病院に不信感を持ったことと、それならもうつらい治療は受けたくないと、私のクリニックにいらっしゃったのです。
モルヒネで痛みを取り除くことができたその方は、「友だちに会っておきたい。父のお墓参りもしたい」と、娘さん、息子さんに付き添われて、長年暮らしていた北海道へ旅をされました。放から帰ってくると、ライフワークだった書道のコンクールに出展する作品を書き上げました。そして、自分で選んだ布で作ってもらった死出の旅に着るドレスを試着して写真まで撮られて。亡くなる直前まで周りの人に「こんなによくしてもらってありがとう」とおっしゃって、おだやかに亡くなったんです。告別式では、「白いブーゲンビリアの花を思いっきり使ってね」と言い残していたその方が、花に囲まれた写真の中で微笑んでいました。
最後の時間は自分の家で過ごしたい
在宅でこんなふうに命を最期の瞬間まで輝かせることができたら、それは素晴らしいことだと思うのです。 人はいつか必ず死にますが、自分の人生の時間が限られているとわかったとき、冬草さんの多くは、「今までどおりの暮らしをつづけたい」と希望されます。そして、残された時間を病院のベッドの上で寝たきりでいるのではなく、自分の家で過ごしたい。できるだけ苦しまずに死にたいと。
在宅ホスピスケアについて、「病気を治すことをあきらめていて、そんなのは医療ではない」とかつてはいわれたこともあります。でも私はそうは思いません。最期の瞬問まで一人の人間として、その人らしくいられるようなケアをする。いままでになかった最先端の医療だと思いますし、こういう最期が迎えられたら、本人も周りの人も「素晴らしい人生だった」と思えるのではないでしょうか。
健康なときの生き方、姿勢がたいせつ
ただ、患者さんのなかには末期ガンという現実を受け入れられずに、ホスピスケアを拒絶してしまう方もいらっしゃいます。在宅ホスピスケアを受けている方でも、もちろん死に対する恐怖はあります。
それを乗り越えるには、健康なうちから「自分もいつかは死ぬんだ」と心の準備をしておくことが必要です。ときどきでいいんです。そうして自分は限られた命をもって生きていると思えば、毎日を精一杯生きたり、周りにいる人をたいせつにすることにつながってくると思います。
いま、自宅で亡くなる人は全体の二割程度。自宅で亡くなるということは、看取る例の家族も、命に向かい合うことになります。小さな子どもだって「人の命には限りがあって、いつかは自分も死ぬ」と、命のたいせつさや死のリアリティを感じる、病院では見られない豊かさが残る死といえるのではないでしょうか。
在宅ホスピスケアは、患者さんの自宅に通って治療をするため、病院よりも患者さんやご家族と深く問わりを持つことになります。ですから患者さんが亡くなった後も、ご家族との関係がつづいていくこともあります。
先日、ピアノコンサートと私のホスピスについての講演を一緒にさせていただいたんです。そのときのピアニストは、15年前にかかわった患者さんの娘さんでした。こういうときに「命はつながっているんだな」と実感しますし、人と人の問わりができていくんですね。生死のリアリティや人間関係が希薄になってきているいま、これが本来の人間らしい姿なんだという気がしています。
在宅ホスピスケアは、今やっと、育ちつつある医療の新しい分野です。今後もひとりでも多くの人が、笑顔で安らかな人生の最期を迎えられるようになるよう、使命感を持って在宅ホスピスケアの活動をつづけていきたいと思っています。