ホスピス記事

居心地の良さに包まれて

110512_02.jpg(月刊 新医療 2011年5月号のエッセーコーナー「私と医療」より)
幼い頃、祖母たちの在宅での看取りに触れてから「生と死」「いのちとは何か」は私にとって最大の答えの見つからない問題だった。
文学にも興味があった私が医学部に進み、在宅ホスピスケアにこだわって25年近くずっと啓蒙と実践を続けてきたのは、振り返ってみると自然の道のりだったと思う。


研修医の若き日には、都会の最先端の病院で学んだ。積極的治療があるうちはよかったが、患者さんのいのちが最期に近づくと、患者さんにとって果たしてこれでいいのか、と割り切れなかった。
当時は、がん告知がされないことがほとんどで、いのちの主人公の本人の思いや希望を正面から聞けなかった。点滴のラインや酸素マスク、カテーテルで身動きできない患者さんも多く、医療的処置の時は家族は病室から出され、遠巻きに眺めるだけだった。患者さんと死について率直に語ることはタブーだったし、私は正直、息が詰まるような気持ちになった。
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だから、新米の頃、入院中の23歳の女性末期がん患者と知り合った時、医者が情緒的になってはいけない、という教育を受けていたが、<この人が妹だったら・・・>という思いが湧き上がり、抑えることができずに「これからどうしたいの?」と聞いてしまったのだ。彼女は「家に帰りたい」とすぐに答えた。当時は在宅ケアという取り組みや、ホスピスケアの考え方は社会にほとんどなかった。延命や治癒の可能性をわずかでも大病院に求めていたご両親は悩んだが、「娘の望みが私たちの望みです」と、帰宅を決心した。それから3ヵ月、彼女は病院に戻ることなく、最期まで家で平和に過ごした。
私は在宅ケアの24時間対応する責任の重さを学んだ。往診すると、彼女も家族も居心地が良さそうで、私も嬉しかった。家族はいのちに向かい合い、ケアの全てを負い、力を尽くして思い出をひとつひとつ積み重ねた。病室にした居間の隣の台所から、お母さんの鼻歌と包丁の音が聞こえる。味噌汁の匂い。「先生、食べていかない?」と聞かれ、「喜んで!」と答える。夕方になれば、妹の声が「ただいま」と響き、パタパタとスリッパの音をさせ、姉の様子を覗きに来る。洗濯機の音や洗剤の香り。窓を打つ風の音。晩酌をしながら父親が話す声。彼女の五感に届く全てを感じながら、いのちの主人公として、凛として3ヵ月を笑顔で過ごし、母親にしっかり抱きしめられて旅立った。
25年前、私の初めての在宅ホスピスケアだ。
暮らすことはエネルギーの交流だと思う。暮らしのエネルギーの中で、「死もいのちの一部」もしくは「生も死も暮らしの一部」と感じた時、病人も家族も恐れから解放され、安心を得られると私は学んでいる。
日本中の病院に今、緩和ケア病棟が続々と作られている。私も時々のぞくが、在宅でのいのちのエネルギーの流れとはかなり違う感じがする。
私には在宅ホスピスケアのいのちを支える仕事が性に合うし、使命だと思っている。