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「明るく、平等に」を糧に

日本の暦の上では白露となりましたが、まだまだ日昼はむし暑さを感じるこの頃です。
「親の背中」というタイトルで取材を受けましてこの記事になりました。
「亡き人を語る間はその人は死んでいない」と永六輔さんがおっしゃっていました。
本当に父のことが鮮やかによみがえり、彼岸を前によい供養となりました。
ご一緒に思い出して頂けらたうれしいです。
この両親があって今の私が居ます。 草々

山梨新報2016年9月16日より
 ふじ内科クリニック院長で在宅ホスピス医の内藤いづみさん(60)の父義太郎さん(享年53)と母富士丸さん(94)は、ともに小学校の教員として出会った。
だが2人は結婚後すぐに学校を退職し1948年、六郷町(現市川三郷町)にある義太郎さんの実家で、小さなスーパーを開店。資金も経験もなく、周囲から反対されたが、「自由経済の中で思い切り頑張ってみたい」という挑戦だった。終戦後の食料が乏しかった時代、店は「先生の魚屋さん」と話題になって繁盛し、2人は早朝から休む間もなく働いていたという。

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「至難の道」
 その一方、義太郎さんは町の教育行政に携わり、教育委員長、教育長を歴任。進歩的な考えを持ち、早くから男女平等を唱えた。そんな家庭環境の中で内藤さんは将来、「お嫁さん」になるだけでなく、職業を持つことが当たり前だと考え、医者を志すようになった。「お前は至難の道を選んだな」。高校1年のときに義太郎さんから掛けられた言葉は今も忘れられない。「至難の道とは、医学部に受かることではなく、立派な医者になることだと感じ、胸に突き刺さった」と振り返る。だが、それから間もなく義太郎さんは脳出血を患              い、50代の若さで急逝した。
「父が一晩で亡くなったショックは大きく、しばらく泣くことすらできなかった。だからこそ今、患者さんが家族と過こす殘された時間の大切さが分かる」と話す。

情熱と目標
 義太郎さんが亡くなった当時、内藤さんは高校1年、弟は小学6年だった。2人の子どもを養うため、富士丸さんはすぐに自動車の免許を取得し、仕入れも自分で担当した。半年後には店を新装オープンし、毎朝、暗いうちから働いた。その傍ら、県商工会婦入部連合会長などの要職も務め、子どもたちが独立した後も、75歳まで店頭に立って地域の台所を支えた。
 「母はエネルギーと情熱に満ち、前進し続ける人。現状に満足せず、常に目標を高く持っていて、94歳になった今も変わらない」。
末期がん患者などが住み慣れた自宅で療養する在宅ホスピスや、在宅での看取りなど「いのち」をテーマにした講演活動をこれまで全国で1000回以上行っている内藤さんの講演内容に関し「もっと分かりやすい言葉で、誰にでも理解できるように話しなさい」などと注文をつけることもあるという。

ホスピス医
若かりし両親が新しい世界に飛び込んだように、まだ日本では認知度が低かったホスピスケアに内藤さんが取り組み始めたのは35年ほど前。以来、末期がん患者や高齢者、その家族と向き合う毎日の中で大切にしているのは、明るさとユーモアだ。「私か少しでも暗い気持ちになったら、患者さんに伝染してしまうから」。決して威張らず、誰にでも平等に接した義太郎さんと、その両親を自宅で看取り、「介護は苦労でも何でもなかった」と話してい
たという富士丸さん。気力と明るさ、そして優しさは、内藤さんにしっかりと受け継がれている。