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最期の日々に全力で寄り添って

(「清流」2009年7月号より抜粋) 
「いのちにかかわる仕事」がしたい
出会った瞬間に、人の心をほどく両頼のエクボと柔らかな声。甲府盆地に今日ふんわりと吹いている春風のように心地よい。山梨県甲府市で「ふじ内科クリニック」を開業している内藤いづみさんは、在宅ホスピス医として一六年、進行ガンなどの患者たちの最期の日々に全力で寄り添ってきた。


090605_01.jpg「院長ではありますが、ここのただ一人の医師(笑)。午前中は内科の外来診療をして、午後は往診に回ります。現在診ている末期ガンの患者さんは一二、三人。重症の方でも、元気な部分を保って生活なさっていて、『生きてるよー!』なんて診察室に通ってくるような方が増えたのが、すごくうれしいですね。その方の『生きる力』や余命は、病院の数値からはけっして決められないのです」
 クリニックの入口は春の花にあふれ、待合室や診察室には絵や手作り人形たちが飾られている。
注射台に手を置けば、目線の先には週替わりのバラ。さりげない気配りが随所にある明るい空間だ。
往診に回るときは、白衣ではなく季節の花柄などの服を着て、世間話をして笑っていることが多いという。
 山梨県六郷町(現・市川三郷町)の生まれ。教師だった両親は、結婚して魚屋を開いたチャレンジの人。〝なせば成る″がモットーの熱血女性だった母を、父は「女性も自立すべき」と応援した。
父は町の歴代で一番若い教育委員長となり、母は商工会に女性部をつくつた。
「そんな両親でしたから、私は早熟でしたね。幼稚園にあがる前からいろいろな本を読み始め、小学校では世界文学全集を愛読し、中学生のときには安部公房なんて読んでました。『心も体も含めていのちにかかわわる仕事がしたい』と思ったのは十四歳のとき。幼いときの、祖母が自宅で最期を迎えた記憶や母の乳ガンも影響したのだと思います。おばあちゃんが、その日から動かなくなり、返事をしてくれなくなった。子ども心に『生と死』をしっかり感じました。家族に見守られて、静かに穏やかに死に向かっていく姿を見たことは、すごく大切なことだったと思います」
 高校生のとき、父が急逝。福島県立医大に進んだが、人間を臓器ごとに分割して医学的知識だけを叩き込まれる授業に違和感をもち続けた。東京・三井記念病院での研修医時代は、疑問は封印して内科医師としてとにかく一人前になることが先決と、厳しい二年間に耐えた。
英国人である夫のピーターさんとは日本で知り合って東京女子医大病院の内科医勤務のときに結婚。夫の本国転勤にともなって、スコットランドで五年問を過ごす。
「ちょうど英国ではホスピス(治療の見込みがなくなった末期ガン患者などの痛みをやわらげ、精神的ケアをする医療活動)を立ち上げる機運がまっ盛り。自分のめざす、患者一人一人に寄り添う医療に出合えて、日本での緩和ケアに取り組みたいとファイトがわきました」
いつも新しい発見と出合い
 妻の熱意を受け取めた夫は日本で暮らすため、会社員から翻訳業へと転職を決意してくれた。二人の子どもと共に四人で日本に帰国、市内の病院に勤務しながら「山梨ホスピス研究会」を立ち上げる。三人目の子を出産したのち、クリニックを開いた。
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「最重症の患者さんはつねに五、六人います。四六時中、心から離れません。在宅ホスピス医としてお手伝いできるのは、その方が自分で残りの人生計画を立て直し、『生きてきてよかった』と感じたり『やり残したことをやっておこう』となさる時間をつくること。そのためにも苦痛を医療で緩和しなければなりません。病室と違う在宅のよさは、孫の声が聞こえたり、夕食後の団欒があったり、エネルギーの循環に満ちていること。ご本人が望み、ご家族でそれを叶えたいと思えば、家が狭いなんてまったく問題ありません。かえって狭いほうが楽しい(笑)」
 在宅での最期に寄り添ってきた一六年、患者さんと家族の何とさまざまな物語を目のあたりにしてきたことか。奇跡、と呼びたい物語も数々あった。ずっと別居を続けていた夫婦が、最後の二週間で赦し合い、「ありがとう」を言い合うことができたという例もあった。
 ダンディなYさんは膵臓ガンによる腸閉塞のため、食事が制限されていた。いつ昏睡状態になってもおかしくないという状態だった。「うまい天ぷらが食べたい」というYさんの希望を、内藤さんは叶えてあげたいと思った。友人の料理店主に「生きていてよかったと思える天ぷらを」と頼み、車で五〇分の八ヶ岳へ。Yさんはおいしそうに食べたあと、「うまい!」と言って、畳の上でひと眠り。
「目が覚めるや、Yさんはズボンのお尻の財布をボンと叩いて、こう言ったの。『うまかった。今日は俺のおごりだ』って。人生をドロップアウトした病人ではなく、私たちの〝生きている〃一員としての言葉。忘れられません」
 その言葉を忘れられないのは、内藤さんがいつも患者さんと一対一の人間として向き合っているからだ。そうでない医療者には素通りする言葉である。
一対一で全力で誠実に向き合うがゆえに、いっぱいいっぱいになることもある。患者さんがいよいよ危いというときの緊張感は大きなもの。あるとき、その緊張が三件も続いてしまった。
「夜空を見上げて『神さま、もうできません』と言いたいくらいでした。疲れのあまり、タクシーを頼みました。すると、運転手さんが話しかけてきたの。『内藤先生、以前、先生のところへ送り迎えしていた女性の患者さんが言ってましたよ。
先生がいてくれるから、私はその日まで安心して生き抜ける、つて』。その言葉を聞いて、がんばるぞー!と元気がわいてきました」
 しあわせをみつけるのは自分
 三人の子どもたちのうち、二人は大学生となり、子育ては一段落といった現在。「家庭と仕事の両立」こそ、若き日からの内藤さんの目標だった。
それを支えてくれた一番の力は、何といっても夫のピーターさん。新聞の連載や講演などもあって忙しすぎた日々には、「僕と口をきいてくれない」というブーイングも発する愛妻家だ。結婚に反対だった内藤さんのお母さんは、今では「あなたの夫が務まるのはピーターしかいない」と言っているそうだ。
「家庭をもち、いろいろなしがらみがあるからこそ、そこから得る力というものが私たちを成長させてくれると思うの。母として妻としてふつうに暮らして、家計の大変さも味わって、より患者さんの苦しみに寄り添うことでできるのではないかしら」
 たくさんのいのちの最期にかかわり、気がついた。いのちとは、希望の力に生かされているのだ、と。病める人もそうでない人も。この大切なことに気づかせてくれた人たちのことを語り伝えたくて、講濾を引き受け執筆もしている。
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 最新刊の『しあわせの13粒』は、日々のなかでしあわせをつくることは、じっは本人次第で、とても簡単なことというメッセージが各頁にきらめいている。
 ある患者さんは、この本のなかでもとくに「一日に一回、大笑いをする」という頁が大好きと言ってくれた。奥さんに向かい、「ねえ、きょう、いっぱい笑ったね」と言ったのが、亡くなる三日前だった。
「家にいたら、笑う材料はいっばいあるんですね。国の方針として、最期は自宅でと言われ始め、緩和ケア病棟も増えてきました。システムとしては広がりを見せていますが、やはり末端の一対一のあたたかい医療が一番大事。
地道に取り組んでいきたいですね。人間には本来、産む力、生まれる力、看取る力、死ぬ力が備わっているのですから」
 これからの夢は、八ヶ岳に「ひと休み村」をつくること。いろいろな人が、心を休ませることのできる止まり木のような場所にしたいと願う。
「マザー・テレサは『大海の中の一滴の仕事でいい』と言いました。私もそう。大海の中の一滴の仕事として、最期のかけがえのない日々に向き合っていきたいのです」
 内藤さんの一滴は、みずみずしく、ゆたかに甲府の地に浸み込んでいく。
取材後、「一服しましょ」と連れていってくださった一軒家のティールーム。お化け屋敷が大の苦手という話、合気道を習いたいという話、猫の話……。
昔からの友人のように笑い合って、気がついた。最期の日々も、内藤さんの笑顔と〝世間話″がそばにあったら、きっとこうして笑っていられる、と。


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