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家で看取りたい、看取られたい~在宅ホスピスの今~

この人が?いつも命の瀬戸際と向かい合っているドクターとはとても思えない柔和なたたずまいと穏やかな語り口。「私たちは、患者さんとご家族のお手伝いをするだけ」と、周囲に看取られながら過ごす末期がんの患者さんたちに勇気を与え続ける。


「アイユ」2008年10月号(財団法人人権教育啓発推進センター)
「人権トーク」対談より
 横田 お忙しいところ、わざわざ遠方よりお越しいただきまして、大変ありがとうございます。私事で恐縮ですが、私も長く患っていた義母を最近亡くしまして、内藤先生のご活動をお聞きするにつけ他人事とは思えませんでした。今日はお話を伺えるのを楽しみにしておりました。
在宅ホスピスを私なりに言うなら、家で死にたい、家で看取りたいといった当事者の思い、家族の心をいかに全うすることができるか、ということかと思います。今でこそ、「在宅ホスピス」という言葉も身近になったかと思いますが、まずは内藤さんの実践されている在宅ホスピスとは?をお聞かせいただけますか。
 内藤 はい。主に末期がんの患者さんに、その方が希望する家で最期を迎えてもらうために、私どもやご家族、関係者が協力して臨むということです。「ありがとう」と「さよなら」が一緒になるのが在宅ホスピスの考え方です。
 横田 本人や家族にとって、家で…というのは理屈を超えた心情かと思います。といって死の間際は、きれいごとだけでは済まないものでしょうし、医師や看護師、介護士の支えがないとなかなか成り立ちませんね。
命ってなんだ?
 内藤 イギリスのように市民活動の一環にまでなればまた別でしょうが、私どもは、地域の訪問看護師さんたちとチームを組んでやっています。往診を欠かさないようにし、ご本人が、痛みを感じず、笑い、食べられるように診ています。患者さんが最期まで「今を生きる」ことができるように手助けをする。それがホスピス活動かと思います。
 横田 人生を過ごした家で最期を迎えたい、というのは人間の永遠の理想でしょうね。私なんかもできることなら…と思っています。でも、そう簡単にはいかないのが現実です。その現実社会で、極めて困難と思われるこのテーマに内藤さんは取り組んでこられた。どういういきさつだったのか、聞かせてください。
 内藤 そもそも、医者になってからずっと、命の瀬戸際と向かい合いたいと、思っていたんです。ですから、研修医のときから臨床を目指しました。大きな病院に臨床研修医として採用してもらいました。高い倍率だったんですがたまたま受かりまして、そこで二年間、本当にいい経験をさせてもらいました。
 横田 おそらくは、医師としての初心みたいなものが形づくられるスタート時期ですよね?そこですでに「いい経験」をされたというのはすごいですね。
 内藤 命の瀬戸際の方たちとたくさん出会えたんです。その病院はそれこそ、困っている人はホームレスの方から、総理大臣まで来る病院で、どの命も平等なものとしてみるということを教わりました。看護師さんたちとチームとして仕事をすることの意味、重要さも教えてもらい、貴重な体験をしました。
 横田 それなのに、二年間しかおられなかったとか。
 内藤 二年経ったころに、また、幼いときから抱いていた疑問にぶつかってしまったんです。「命とはなんだ?」という疑問ですね。例えば、一泊十万円もする個室にいても、無料の大部屋にいても、最期を迎える人の苦しみは同じじゃないかな、ということをますます強く感じるようになっていたんです。
 横田 幼いころから、というのは子どものころからですか?
 内藤 振り返ってみると、将来医者になりたいと思い始めたのが中学二年生のころでしたね。
 横田 えっ?中学二年でですか?
 内藤 はい、十四歳のときでした。
それまでは本を読んだり文章を書いたりという文学的なことに興味があったんです。でも、いつも、何か人間に現実的に近づく仕事に就きたいと思っていまして、いつのまにか医者を志して、結局、医学部に入ったんですがどうも物足りなかったんです。私は、人の苦しみとか悲しみについて医学的にも接したかったのですが、命についての別の視点からのアプローチを見つけられませんでした。当時、一九八〇年代の初めでしたが、科学がどんどん発達してきている時期で、先端医療が人類を救う、という方向付けが強くあって、人間とは?のような問いかけはほとんど表に出ていませんでした。
 横田 在宅ホスピスを目指された原点をうかがい知る思いです。
 内藤 今にして思うと、ですが、死も命の一部なんです。その命はまた、人間を形作るもので、医療はそのほんのわずかなところを見ているに過ぎないのじゃないか、というのが今になって思えるんです。でも、当時は壁に突き当たった感じでした。医者になるとき自分に言い聞かせていました。自分の中にある疑問を消してしまうようだったら医者を辞めよう、と。それだったら医者になる意味がない、と自分なりに思っていました。
■新米の女医が
 横田 どんな壁があったのでしょうか。
 内藤 一番感じたのが、がんの患者さんたちの孤独さでした。当時は、告知なんかまずありません。患者さんに病状をあいまいに告げるしかありませんでした。患者さん本人も家族に本当の思いを告げられない。結局、むなしい状況の中で最期を迎えてしまっていると感じることがけっこうありました。
 横田 おっしゃるとおりのこともあったのかと思います。周りの関係者はわかっていても、本人だけが知らない、いや知らされなかった…。
 内藤 先を見越して、今、何がしたいですか?と患者さんに聞けない。ほとんどの患者さんが治療が効かないとわかれば家に帰りたいとおっしゃったかと、今は思います。でも、当時はそんなこととても聞けなかった。最先端のがんの治療を受けても、私から見たら本当にむなしい最期、というようにしか映らないケースがありました。
 横田 それで別の病院に移られた?
 内藤 疑問ばかりではなく、友人もたくさん勤めていましたので転機かなと。そこで、若い末期がんの患者さんにめぐり合いました。
 横田 著書にも書いておられる「ユキ」さんですね?
 内藤 はい。私が二十六歳で彼女が二十三歳でした。非常に賢い人で、おそらく自分の病状はうすうす察知していたんじゃないかと思います。
私たちは、余命三か月と診ていました。もちろん、本人には告げられていません。冷静に客観的に考えて、手遅れで抗がん剤も効かない患者に治療を続ける。私は、耐えられない思いでした。患者さん本人にとって何が幸せかというのは、本人が選ぶべきなのじゃないのかという思いがどんどん強くなりました。難しいぎりぎりの選択だったのですが、思い切って聞くことにしました。
 横田 告知されたのですか?
 内藤 いいえ、全く別の形で聞きました。ある夜、ご家族もいないときにそっと聞きました。「今、何かしたいことがありますか?私にできることがあったらお手伝いしますよ」と。
 横田 末期がんの治療中だったのでしょうから、もしも彼女が帰りたい、といってもそう簡単にはいかない状態だったのでしょう?
 内藤 はい。身体には管が入っていて身動きがとれませんし、毎日、四十度くらいの熱が出る。胸水もたまっていて息も苦しい。とても家に帰られる状況ではありませんでした。でも、彼女は、こう言ったんです。「ちょっとでいいから家に帰りたい。いろいろ始末したいものがある」と。
 横田 そういう思いは、親や家族に話していなかったのでしょうか。
 内藤 親を困らせたくないと思って、じつと我慢していたのでしょうね。私はもう、たまらず母親に告げました。娘さんが家に帰りたがっている、私がお手伝いしますので帰らせてあげませんか、と。そうしましたらなんと、お母さまが、「わかりました」って。
 横田 勇気のある方ですね。
 内藤 そう思いました。なにせその病院は、二百人余りものそうそうたるドクターがいる大病院です。そこで、新米のたかだか二十六歳の女医が、末期がんの女性を家に帰らせようと提案する。それを快諾されたのですから。はつきりした方で、「娘の望みが私の望みです」とおっしゃいました。逆にお父さまの方が、待て待て、とか、もっと情報を知らなきやとか、そんな若い女医の言うことだけで大丈夫か、という感じでした。
 横田 それで、即、退院だったのですか?
 内藤 いえ、がんにはいったん状況がよくなるというときがあるんです。そのときが訪れ、管も抜けて熱も下がりました。今しかない、と本人の意思も確認して家に帰りました。帰ると彼女は、もう病院には戻りたくないと言うんです。私も覚悟を決めて、何かあったら私がすぐ駆けつけるからポケットベルを鳴らして、と頼みました。当時は、ポケットベルしかありませんでしたから。
その一方で、可能な限り私が往診して点滴をしたりしました。そういう状態で三か月、一度も彼女は病院に戻ることなく、家で息を引き取りました。
■自分の命をコントロール
 横田 先ほど申し上げました私の義母の場合も、脳梗塞で倒れて入院していたときに、家に帰ることを熱望しました。本人は半身不随で言語障害もあり、帰りたいと告げられないものですから、体全体を使って意思表示していたんです。そのためにだったのでしょう、義母はリハビリを必死にやっていました。医師が、もう止めなさい、というぐらいでした。私たちも必死になりました。母の願いに応えようと、車いすで動けるように家をバリアフリー化して迎えました。数年間、家で過ごした母でしたが、二度目の脳梗塞が出て最後は意識が戻らないまま、病院で亡くなりました。
 内藤 お幸せな最期でしたね。
 横田 義母切最期も、もし意識があり可能なら、在宅にしていたと思います。そんな経験がありますので、おっしゃることが本当に身にしみます。
 内藤 「ユキ」さんを看取った後、縁があってイギリスへ行き、ホスピス・ムーブメントといわれていた活動に接しました。
横田 ムーブメント、ですか?
 内藤 はい。医療に取り込まれた自分の命をもう一度、自分に取り戻して、自分でコントロールしていくという考え方です。人間としてしっかり自立して、自分の命を自分でつかさどっていくという強い意識が必要なわけで、私には市民の力の問題かなと映りました。実際、ホスピスを運営するために一般の人たちが何百人も参加して資金を出し合っていました。自分たちのためでもあるという考えなんですね。もちろんチャリティだけでなく、国とか地方自治体からの助成もありました。文化の違いといいますか、考え方の問題といいますか、日本でホスピスをやろうとしたら、公立病院に緩和ケア病棟を作ってもらうか自分で莫大な借金をしてやるかしかないんですね。私も、イギリスで学んだホスピスの中身を日本でも普及させようと二十年余、頑張ってきましたが、自分でホスピスの施設自体を作るということだけはやりませんでした。
 横田 人間は死の直前まで、意識もあれば、ものも考える。周りには家族もおり、まさに死ぬまで人として在り続けるはずですね。
 内藤 よく聞かれるんです。「内藤さんはどうして、治らない、治せないという患者さんに、そんなに一生懸命かかわっているんですか?」と。不思議でならないけど何か宗教的なものがおありですか?とも。
 横田 日本の医療は、世界でも最高のレベルにあると思います。病院は病気を治してくれるところであると考えれば、確かに、なぜ?という人がいてもおかしくないですね。
 内藤 たとえば百人の人がいたら、同じようになぜ?という人が七割くらいですね。これまで二十年余、普及活動といいますか啓発活動をしてきて、やっと十人ほどの方が、すごいことをしているね、と言ってくれるようになったでしょうか。私はひたすら、患者さんの人権、あるいは人間の守るべき尊厳などに向き合うことをやろうとしているだけなのですが…。
■主役は患者さん
 横田 おっしゃるとおりかと思います。ただ、本当に限定的かもしれませんが、中には一人の人間として患者さんに接している医師もおられます。私の義母が診てもらっていた
近くのクリニックの医師は、葬儀にわざわざ来てくださったほどでした。ただ、そういう方々の思いが医学教育に組織的に組み込まれてないのが現状かと思います。一言で言って、日本のホスピスはどういう状況なのでしょう?
 内藤 緩和ケア、という意味で言うなら八〇年代の終わりころからでしょうか、登場しました。ここ数年で、ホスピスという言葉の内容がずいぶん理解され、施設もできました。それでもまだ、ホスピスとは言いがたいものがあると私は感じています。
 横田 人の魂、尊厳にまで踏み込めないでいるということでしょうか?
 内藤 それと同時に、患者さん本人たちの自立心の問題もあります。患者さん側の意識とホスピスは、いわば車の両輪です。在宅ホスピス医としての私たちは、患者さん本人が天国に行くということを支える役をしているのです。私たちが天国に一緒に行くわけじゃないんですね。私たちは決して主役ではない、ということを患者さんに関わる人たち、看護師たちにいつも強調しています。
 横田 でも、実際問題として、在宅で死期を迎えた患者さんがいるとして、最期の瞬間に医師にいてもらえなかったら、と考えると家族や関係者も不安でしょうね。
 内藤 そうですね。仮に私たちがそばにいなくても、家族に看看取る力ができるまでになれば理想的なんです。それこそ、私たちは余計な人間としているだけで済みますから。でも実際は、みなさん、死そのものがすごく怖いのだと思います。ですから、なにがなんでも医師にそばにいてもらわなくてはいけないとか、看護師さんがいなくてはだめだと考えてしまう。それがよくわかりますから、私たちも在宅で看取ろうとしている家には頻繁に行くようにしていますし、看護師もその場にいるというようにしています。でも、亡くなっていこうとしている方が一番そばにいてほしいのは家族ではないでしょうか。だから、私たちはお守りでいいんです。
 横田 今現在、どのくらいの患者さんを在宅で診ておられるのですか?
 内藤 いつ亡くなるかわからない重症の方が常に一人か二人、いらっしゃいます。後は外来で来てもらうことも含めて進行期のがんの方が十人前後でしょうか。
 横田 内藤先生には、つかの間も含めて休みはなしですね?
 内藤 そうですね、どこかで必ず患者さんとつながっていますから。ここでこうやってお話していてもです。映画館へ行っても呼び出しがありますし、もう、私の家族は「携帯が鳴ればお母さんは消えてしまう」と当たり前に思い、そういう緊張感を理解しながら付き合ってくれています。
 横田 そうですか。それにしては、ですが、そういった刹那的な緊張感がお顔の表情からも身体からも、全く感じられません。本当に柔和な表情でいらっしやる。大変失礼ながら、さきほど来、お医者さんというより、町なかの一人の「おばちゃん」といった感を受けています。
 内藤 それはそれは!私にとって何よりのほめ言葉です!(笑い)
 横田 まだまだ、お話をたっぷりお聞きしたいのですが、時間もなくなりました。これからもどうぞ、命の尊厳のため、ご健闘いただきたいと思います。本日は本当にありがとうございました。
(司会 アイユ編集委員)


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