開催報告 2008年7月11日 尼崎市

聖トマス大学公開講座第2回「悲嘆」について学ぶ、の様子を、参加してくださった方からのお手紙を通じてお伝えいたします。


聖トマス大学公開講座  
第2回「悲嘆」について学ぶ
2008年7月11日(金)  18:00~19:40
                   
聖トマス大学の公開講座に行ってきました。講師は内藤いづみ先生。題目は「命のケアから学んだこと」です080730_01.jpg
聖トマス大学は尼崎市若王子にあり正面に暖かなレンガ色の建物と欅や銀杏の並木道のある緑豊かな大学です。足を一歩踏み入れると、「サピエンチア・タワー」が目の前にそびえ立ち、「いらっしゃい!!」と声をかけられたような、一瞬、不思議な感覚の中で、なんだか心が癒されました。
「悲嘆」という重いテーマを内藤先生は、どのようにお話ししてくださるのだろうか……。
期待で胸がいっぱいでした。講義室は301号室。階段を上りながら女子大生の頃が甦りました。
午後6時ちょうどに講座は始まりました。階段教室を埋め尽くすたくさんの方々……300名はいらっしゃるのでしょうか、お顔を拝見すると老若男女、ほんとうに年齢を問わず多くの方々が関心を持っていらっしゃるのですね……。
最初に「兵庫・生と死を考える会」会長・聖トマス大学客員教授のシスター高木(高木慶子先生)が「先生の姓は内藤なのに、何故ふじ内科クリニックなのか以前から疑問に思っていて質問しましたら、富士山の富士(ふじ)、内藤の藤(ふじ)、お母様のお名前の富士丸の富士(ふじ)をとって、ふじ内科クリニックにされたとお聞きしました…」など、先生のご紹介を交えて和やかに講座を進行されました。
シスター高木のお話しの後、「倒れそうな方はいないかな…空調もいいし大丈夫そう……」と、さりげない先生のユーモアに会場は笑いに満ちて、暖かな雰囲気の中、いよいよ内藤先生の講演のスタートです。
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尼崎といえば、JR福知山線脱線事故で予想もしない辛い別れを経験された方もいらっしゃいます。元気で出て行った家族が元気で帰って来れるのだろうか……。
明日は何があるかわからない。看取りにどう協力し「悲嘆」に家族はどういう状況だったのか……。
百冊の本を読むより体験は大きいのですね。
そんな中「予期せぬ別れを体験した方がいらっしゃると思いますので滅多にしませんが、私の話しをします」と内藤先生は、15歳の時、お父様を突然病で失われた体験を話されました。
無償(無条件)の愛を説いたエリザベス・キュブラーロスの受容に至るプロセスを話されながら、ご自分はお父様を亡くされて3ヶ月間、何事もなかったように過ごしたこと。
お世話をしてくださった叔母様が帰られた後、毎晩布団に包まって号泣し、お母様の前では常にいい子を装って100日間過ごしたこと。泣き明かしたせいで視力が低下したことなどをあげ、時には「バカヤロー!なんで措いて逝ったのか!!」と思いっきり泣いて、自分の感情を出すことの大切さを説かれました。
次に、山梨から見る富士山、静岡から見る富士山の写真を見せて頂きました。どちらも、各々特徴があり美しい富士山の写真でした。たったひとつの命なのに見る人によって命は違うこと。決して自分の見る命がすべてだとは思ってはいけないこと。
富士山の裏表を見ながら決して自分の考えを押しつけてはいけないこと。謙虚な気持で、自分はどんな手助けが出来るのかを考えること。確かに富士山論争の中、どちらが美しいとか、どちらのものとかではなく、驕らず謙虚な自分でありたいと痛感しました。
次に八ヶ岳の鳥の声を聞かせてくださいました。「悲嘆の底に浸った時、自然の中に目をとめて身を浸して欲しい。死ぬということは命の一部なんですよ。一生懸命生きるという輪郭がない限り、死を学ぶことは出来ない」と死生学を説かれ、「海の音、川の音、滝の音、絶望の底についたと思ったら花や水の音に身を浸して欲しい。鳥の声を煩わしいと感じたらかなり疲れています。
日本人は何千年も自然と共に生きてきました…」そんなお話しを聞きながら、先生の勧められる丈夫なプラントを選んで、早速一鉢買って、植物を育ててみようと思いました。小さな命を育ててみたくなりました。
里みちこさんの詩から「人が死ぬ時〝ありがとう〟という域にのって私達の手に渡される時もある」ことを感じ、91歳の膵臓癌のおばあちゃんのお話しの後、会場の皆さんとワークショップをしました。まず、2人か3人のグループになって「互いの目を見つめる」そして「口でありがとう」「手でありがとう」そして「体でありがとう」を表現しました。初対面で少しテレもありましたが、一瞬一瞬の大切さがしみじみ伝わってきました。そして、なにか心の中に暖かいものが湧き上がって来るのを感じたのは私だけではなかったはずです。〝ありがとう〟の言葉の持つ力の大きさを感じると同時に悲しみや苦しみを見つめ直すきっかけになるようにも思えました。
この会場に居て、未だ苦しんでいる方の回復を祈ってやみません。
そして私自身、3年前、3ヶ月の短い間に、父と主人を相次いで癌で亡くし、笑う事は出来ても、
泣いて涙を流すことを全く忘れてしまい今日に至っています。思いっきり泣きたいのに泣く場所がなかったのですね。
内藤先生は、今までご自分が接して、最期を看取られた多くの患者さんの写真を紹介しながら各々の見事な「ありがとう」「さようなら」をお話ししてくださいました。その中で特に印象に残ったのが59歳の膵臓癌の男性の患者さんのお話しです。
余命1ヶ月と言われながら、痛みを取り除く治療をされ1年間生きられました。その方は、先生が「何が食べたい?」と聞くと、毎回、「天ぷら」と答えられ、奥さんの天ぷらは不味いので最期に食べた天ぷらは「うまい!!」と言おうか、美味しい天ぷらを食べさせてあげたかった(笑)
いいえ、と言うより、お仏壇に供えるより今、食べさせてあげようと思われたそうです。そして医療チームを組んで、八ヶ岳に天ぷらを食べに行かれました。大学生の息子さんが父を抱えて車に乗せて、野辺山の新鮮なアスパラの天ぷらを食べることが出来ました。
その時、そのお店に偶然、台湾のカトリックのシスターが修行に来られていて「お祈りは共通だから……」と、その方の為に祈って下さったそうです。
その患者さんは10日後に息を引き取られました。
「食べたい人に何とか食べさせてあげて欲しい」内藤先生の全人的ケアは本当に見事としか言いようがありません。内藤先生のような方に看取ってもらいたい。率直に、そう思いました。  
病院のベッドの上で苦しみながら亡くなっていった主人を見つめながら、今の医療の在り方に疑問を持ち続けていた私に、今日のこの出会いをセッテイングしてくれたのは天国の主人かもしれませんね。
「チューリップの花が咲く頃には、この世にいないのに、球根を毎年植え続けたのは何故?」
食道癌の余命幾ばくもない患者さんの行為に「未来への切符を植え込んで孫やひ孫に花を見せてくれたのでは?」と、内藤先生の講義を受けた小学生の感想文にふれて、理屈ではなく、生きる姿勢を見せていくことこそ本当の意味があり、大人とか子供とかでなく、小さくてもしっかり魂は繋がっているのですね。
080730_02.jpgそしてお産の陣痛の苦しみの時、妊婦さんの腰に手を当ててあげるように、亡くなる時に魂が抜けていく時の痛みにも手を当ててあげる。撫でて、さすって、声をかけて五感を駆使しながら、ありがとう〟と心で言えば必ず相手に伝わっている。これがスピリチュアルケアなのですね。
人間の尊厳を思うにつれ人生の最期を何処でどう過ごしたいかを最も大切にして、先生の人生をかけた在宅ホスピスが、全国に広まることを願ってやみません。「家族が〝改めて〟〝いのち〟に向き合い〝ありがとう〟〝さようなら〟がひとつになる瞬間がそこにある」と内藤先生は言われます。痛みを緩和して、最期まで人間らしく生き抜く姿は、その人を支える家族に悲しみだけではなく生きる勇気を与えてくれるはずです。
大きな悲しみの中、もがき苦しみながら人はいろいろな事を考えます。自問自答しながら、少しずつ自分と折り合いをつけ、平常心を取り戻していきます。その作業はいろいろな感情のぶつかり合いで自分との壮絶な戦いでもありますが、その苦しみを乗り越えて、まわりが見えて来て、以前と違った自分と出会い、驚きと戸惑いの中、人は力強く新しい人生を歩み始めます。
子供の頃、読んだ「野のゆり」という絵本をふっと思いました。
その中に「罪人の中にこそイエス様はいらっしゃる」と言うくだりがあります。赦すということは本当に難しいことですが赦すということは、とても大切なことなのだと子供心にそう思いました。人を赦す姿は尊いし、そこに生きていることの素晴らしさを感じます。
最後に「悲嘆」について考える時、私は大きな悲しみよりも前向きに生きる大きなエネルギーを感じます。苦しみ抜いた人間は苦しみの中で終わってはいけない。人を赦す大きな心を持って力強く生きる姿を、亡くなった大切な人はきっと心から望んでいるのだから……。
内藤先生、ありがとうございました。魂を揺さぶるような講演でした。会場の方々は全く私語もなく、先生のお話しに集中されていました。先生の暖かなお人柄に、皆さん、引き込まれるように、時には笑い、時にはすすり泣き、大きな拍手の中、講演は終了しました。どうか、会場に来られたひとりひとりの方が、幸せな明日を迎えられますように……。
そんな思いで会場を後にしました。