ホスピス記事

いのちの臨界点


「選択」2007年7月号、「還りのいのち還りの医療より~自然死への道を求めて~」
評論家 米沢 慧さまの文章より抜粋

http://www.sentaku.co.jp/images/top01.jpg

終末期については前回、前々回とこだわってふれてきた。要約すれば、「あらゆる治療行為に効果が期待できず、死への進行が止められなくをった状態(日本救急医学会)。あるいは、妥当な医療の継続にもかかわらず死が間近に迫っている状況(人工呼吸器、人工栄養等によっている段階)ということであった。医療体制からの一方的な終末期患者の規定である。患者はすでに不可逆的な死の過程にありながらも死をはばまれ、同時に蘇生の道も断たれた段階にある。これは延命医療や救命医療を極めた成果として出現したものである。
わたしは、脳死・臓器移植法に代表されるこれらの治療(医療)のあり方を「往きの医療」と呼んできた。この医療形態は往きのいのちにつく。そして、老人ケアや緩和ケアやホスピス等に力点を置いた医療を「還りの医療」として区別して考えてきた。

一方がいかに死を遠ざける(幸せに生きる)かに要する医療のあり方だとすれば、もう一方は、そう遠くない時点で確実に訪れるであろう死(心臓死)を受け入れ、ターミナル期をいかに生きるか、そんな還りの「いのち」に寄りそう医療のあり方をさしている。

これまでこだわってきた終来期は「死は敗北である」という往きの医療の極限で宙づりされたいのちの姿ということである。還りの医療は死をいのちの深さとして肯定的にとらえる視点である。ここからみえる終末期はいのちの臨界として受けとめられるものである。臨界のイメージはこうである。
「赤ちゃんを産むときには、これが臨界点、これを超えた出産というのがありますね。それと同じで、ぎりぎりまで生ききると、これ以上は生きられないという臨界点があるようにおもいます」
これは在宅ホスピス医で、看取りを十年以上続けている内藤いづみのことばだが、ホスピスケアがいのちのケアにほかならないことをおしえてくれる。
生誕と死は同じ場所で起きる異なるいのちの出来事としてみているのだ。産まれることと死ぬことが、(いのちの)臨界点ということばで1つになっているのが示唆的である。赤ん坊は、母の胎内で(えら呼吸)九カ月、臨界点からオギャーと一声、肺呼吸の世界に産出されて届けられる。

いのちは往きの相でたちあがり成長期の姿となる。

一方、老衰期に向かう還りのいのちは「これ以上は生ききれない」という臨界点(寿命)として受けとめられる。終末期とはその不可逆的ないのちのドラマ表現ということになる。
私たちはその姿を逃げないでそのまま受けとめなければならない。以下に末期がん愚者の臨界(終末期)の過程に、看取りの視線を重ねてみよう(土橋律子「ターミナルを『黄金の時間』に」『訪問看護と介護』2006年10月号)。
かっこ内はケア内容。

①眠っている時間が多くなる。しばしば目覚めが困難になったりする。

②手足が冷たくなったり、冷や汗でじっとりしていたり、手足の高が紫色になったりすることがある。血液の循環が悪くなるため。(いつも使っている電気あんかなどで暖かくし、さする。触ってもらっている感覚は温かく、安心感が得られる)

③食欲は低下し、ほとんどものを口にしなくなる。(この時期は氷や冷水、果汁などさっぱりしたものが好まれる。無理にすすめることは苦痛を増やす場合があるので、様子を見ながら唇を湿らせる軽度に少しずつ。口腔内のケアは毎日行う)

④時間や場所、名前、家族の誰かがわからなくなる。今生とあの世との境があいまいになる。(魂が行ったり・来たりしているのかもしれない。怖くはない)「みんなそばにいるから安心して」と声をかけてあげる)

⑤尿や便を失禁してしまう。肛門の括約筋や尿道が弛緩してくるためである。(本人のプライドを傷つけないよう、声をかけ、気づかれないように片づけてください)

⑥五感の機能は少しずつ低下していくが聴力は最後まで残る。耳から入って心地よいと思われる言葉や音を意識的に使うとよい。

楽しかった思い出や心に残っているエピソード、感謝の気持ちを伝えることはとても意味がある。
本人は頷く、目線を合わせる、手を動かすといった反応で精一杯になるかもしれない。(反応してもらいたいと必死で呼びかけるのは負担を大きくする。よく見守って、小さな反応も)見逃さないように)この時期に「最後のプレゼント」として大きなメッセージを残す人が多い。

⑦体がだるく、身の置き場がなくなり、じつとしていられずに始終手足を動かし、落ち着きがなくなる。「今までと同様、背中や手足をさすってあげたり、タオルや枕を利用して安楽な体位を工夫してみてください」

⑧終末が近づくと、あえぐような呼吸や、急に呼吸が止まったようになり驚くことがあるかもしれない。呼吸のパターンが変調し、十~三十秒くらいの無呼吸状態が起こることもある。

これも自然の経過で、ときどき苦しそうに顔をしかめるかもしれない。が、休全体の酸素が不足してきているので、意識はぼうっとしており、本人は苦しさを感じていない。次のことを確認する。

⑨意識が低下してくると「うめき声」が漏れることがある。(苦しそうに聞こえるかもしれないが、衰弱が進むと声帯が不安定になって、そのような声が漏れるもので、苦しみの表現ではない。安心して、落ち着いた気持ちで見守ってください)

⑩死に至るまでのプロセスはとても個別的だ。呼吸がだんだん弱くなっていき、最期に止まったのかどうかもわからない人もいる。また、大きな息をして、それで止まる人もいる。(最後まで家族で見守ってあげてください。夜間などで不安が強く、家族だけの看取りが困難と思われる場合は、医師に連絡を入れ、立ち会ってもらう)
さらに臨終に際しては落ち着いた気持ちで見守り、次のことを確認する。(声をかけ、身体に触れても、反応せず動かなくなる。目を開いてみて、瞳孔が散大しているかどうか確認する。呼吸が止まり、心臓も止まる。胸に手を当てて心臓が動いていないことを確認する。鼻に手を当ててみてもよい。

首の動脈に触れてみて、脈に触れなければ亡くなったと判断できる。この時体温はまだ温かく感じる)
このように臨界へのぼりつめていく。

フランスの哲学者ジャン・グルニエはそんな情景を前に、ことばを残している(成瀬駒男訳『地中海の瞑想』竹内書店1971年)。
「近親が病人に、子どもが老人に、或る看病人が患者に、というふうにつくされるあの親切が私は好きだ。枕の位置を変えることは大したことではない。しかし、ほかにしてあげられることが何もないときには?

人は自然に(神に、とは私は言わない)少しずつ寿命を縮めるという労をとってもらい、その上で可能な程度、すなわちほとんど無に等しい程度で、自然に逆らうわけである。この《ほとんど無に等しいこと》がわたしを感動させる。それが人間性の周辺である」と。