エッセイ

在宅ケアのひとつの現状

出会う患者さんとご家族それぞれが抱える人生の課題(ライフレッスン)。それに向かい合う場所は人生の舞台である家庭が最良であると感じて、私は在宅ホスピスケアを20年近く実践してきた。
“終わりよければ全てよし”All’s well that ends well
これはシェイクスピアの名言である。
どんな終わりを迎えるかは、人生の最後の最大の仕事のひとつ。


国の方針による在宅ケアの推進“病院から家へ”が目立つこの頃だ。病院から重症者がどんどん家に帰されている印象を受ける。それにより、困った人たち(行き場のない人たち)が増えているのも事実だ。理由はたくさんある。

ドイツから樋口みちこさんの寄せてくれた文を、ぜひ読んで頂きたい。
彼女はナースで、日本がお手本にした介護保険を実践しているドイツで長年ナースとして働いてきた。そして、日本に一時帰国したら驚くことが続出した。93歳の母を看てくれている姉もナース。ご本人も自分の行く末についてきちんと選んでいた。それなのに大きな不安を抱えた最期の日々。
なぜこんなことに?
樋口さんは介護保険のドイツでの様子もレポートして下さった。
これも参考にぜひお目通し頂きたい。


「一人の在宅医(内藤いづみ先生)によって救われた母を看取って」
                     作 樋口みち子 (ドイツ在住)
秋の気配に包まれ始めた2008年10月上旬、母の状態の悪さを伝える日本からの姉の電話に、この年三回目の日本への飛び立ちとなった。

大変な状態と聞いていた母は、ベットに身を起こしながら「みち子、来てくれた」と嬉しそうな笑顔で迎えてくれた。

姉は母が血圧を下げる薬を服用しても、血圧は下がらず、時々痙攣発作を起こしているという。母も「発作が起きる前は、胸が苦しくなって何とも言われない」と不安を訴えるのっだった。私がついたその日も痙攣の伴う発作を起こし苦悶の表情の母に、私も、胸が締め付けられる思いだった。

「病院のお医者さんは、もうなにもすることがないっていっているのよ。見守るよりほかないっていってる」と繰り返す姉に、「地の果てにすんでいるわけじゃなし、そんなバカなことないわよ。」と着くそうそうから私は姉に反論することになってしまった。

母は4年近く、療養棟を持つ老人病院で外来診察を受けていた。
病院の先生は往診はしないことになっているという。数か月前にそれを聞き、いずれは家庭訪問してくれるお医者さんに変えなければと姉と話をしていたのだった。「お医者さんがいまさら変えなくてもと言った」とか、お医者さんのそんな雰囲気を感じて言いだせなかった」と、精神的気後れが働いたのか、今の状況をむかえてしまっていたのだった。

母は三月にショートステイで倒れ、病院に運ばれ、検査結果から母の心臓は弱いので、ペースメーカーをつけることをその時勧められた。
それに対し「私はもう93歳で十分生きたからそんな手術までして長生きしたいとは思わない」とお医者たちに自ら手術を断った母だった。

その母の発言があった日から、私もできるだけ協力するから、母を好きなように、自由に過ごさせてあげましょう。もう何があっても病院なんて考えないで、自宅で最期を迎えさせてあげましょうと姉と話し合っていたのだった。いつ何があってもおかしくありませんと医者から言われた母は、その後も、自立心旺盛で、デイサービスに通うのを楽しみに生活をしていた。

だが予想されていた通り、突然の発作で、母の状態が急変してしまったのだった。痙攣発作から一週間ですっかり体力は衰えてしまっったのだろう。、ベットの側のポータブルトイレに行くのが母の行動範囲の限界であった。しかし、痙攣発作さえなければ、他に苦しみのない母を自宅で見守れる自信が私にはあった。

「病院の先生は、母を家で看取りたいって言っていることを知っていたのだから、開業医の先生の、誰か紹介してくれないの」高度医療と叫ばれている時代である。「何かよい方法があるはずだと思うけれど」と繰り返す私に、姉はもう一度お医者さんに聞いてみると病院に電話する。「お医者さんの言うこと、何も変わらないわよ「私の言ったとおりでしょ。」「お医者さんも看取ってあげてくださいとしかいわない、もう見守るほかないのよ」と、病院の医者の言うことを繰り返す姉の声もだんだん苛立ちがましてくるのだった。ここ数日の母の痙攣発作で姉もまいってしまっていた。当然なのだ。人が苦しんでいるのを見るのは耐えられないことなのだから、ましてや母親なのだ。

しかし「痛みや、苦しみさえなければ、在宅で看取れるのよ。」と私にとって当たり前のことが姉にも、医者にも通じないのにはこまってしまった。

病院のお医者さんも組織の中で自分ではどうすることもできないのだろう。今まで在宅を考えて対応しなかった私達の責任なのだとわかっていても、病院のお医者さん「看取るっていうことはどういうことなのか分かっているのだろうかと、私もだんだん腹だったしくなってくるのっだった。

母を老人ホームに入れるという実家から、自分の家に母を引き取り4年近くになる姉には、遠方にいて手助けができない私には負い目があった。しかしこのままの状態に母をしておくことはできない。

「お医者さんがいなくて、死亡したときはどうするの?」
「病院の先生が、死んだら連れてくれば、死亡診断書を書いてくれるって、死後の処置もしてくれるんだって」
「死んだ人間をどうやってつれていくの」
「死んだ人は救急車には乗せてくれないし、霊きゅう車で病院に行くわけにもいかないから自分の車で連れて行くのよ」と何の疑問も感じないように話す姉と、そばで黙って聞いている義兄。
私は一体どこの世界に入り込んだのかと思いつつ何も言えなくなってしまったいた。

訪問してくれるお医者さんに相談するだけでも、私がいってお願いしてくるからと言い続ける私に、病院の先生は何もできないと言い続けていた姉がそのときふっと、「知人をとおして頼んでいた医者はいたんだけれど」と言ったのだ。

「どうして早く言わないの、」と私の声のトーンが上がってしまった。

「でもその先生、在宅ホスピス医療専門で、すごく忙しい先生だし、老人をみてくれるかしら」と姉の不安気な言葉を聞きながら、私の方は在宅ホスピスのお医者さんと聞いただけで、そういうお医者さんなら、母のことを解ってもらえるだろうと、百万人もの力を得たような気持ちになってしまたのだった。

在宅ホスピス医療をおこなっているお医者さんがいるのだ。しかもこの甲府市内にである。ここ姉との二日間とは別の世界があったのだと、ほっとした思いを抱きつつ、まだ見ぬ先生のもとに急いだのだった。

内藤いづみ先生
甲府市内の一角に、気をつけていなければ見失ってしまいそうな佇まいで先生の診療所はあった。
かわいらしい玄関をはいると、病院とは全く異なる、家庭的な感じの待合室があった。
お日さまがいっぱいそそぎそうな明るい待合室で待っている間、私が緊張していなかったと言えば嘘になる。急に、しかも大変な時になってかけこんできた私だ。ドイツでも嫌がれ、断れられてもおかしくないような立場を私はとっているのだ。

内藤先生は何気ないような診療机の前に坐っていらした。いかめしさをみじんも感じさせない、というより、はじめから持ち合わせていないような、ゆったりとした、きさくそうな明るい雰囲気をお持ちの方だった。
私の緊張感はすーと消えてしまった。、そして母の現状を話し、「先生助けてください」と素直にお願いできたのだった。
私の話を聞き、「だいぶ状態がが悪いようね」と言いながら、「今日三時頃伺います」と、当たり前のように言ってくださった先生に、これで母は救われたと涙が溢れそうになった。ホッとして診察室を去る私の後ろで、在宅酸素の手配をしてくれるように連絡してとスタッフに指示している先生の声が聞こえた。

義兄が帰りの車の中で、「みち子さんのおかげで、病院の医者の言うことを信じてしまっていた、僕たちはおかしかったということがよくわかりました。来てくれて本当によかった。」としみじみと言ってくれたのだった。
ドイツでは当たり前と思っていた、在宅医の存在の重さ〈大きさ〉ありがたさを痛感させられたこの二日間だった。
、「お医者さんが来てくれるよ」というと母は目を大きくしながら「本当に先生がうちに来てくれる」と信じられないにような表情をしたのだった。

先生は三時に看護師さんとやってきた。在宅酸素の使用方法や、痙攣発作時の対応や、今までの薬剤を変更する指示をしてくれる内藤先生は、終始明るい雰囲気と気さくさで、困りきっていた私たち家族に、なんでもないことなんだと思ってしまうほどの安心感を与え、残され帰って行かれた。

4時頃に在宅酸素が届いた。あまりの速さに、驚く私に「内藤先生から連絡が来たらすぐ届けられるように、常に予備を車のなかに置いておくのです。内藤先生の患者さんはは迅速をようしますから」と内藤先生の指示にすぐ対応できるよう準備しているという。
彼らが先生との信頼関係の中で仕事をしているのが感じられ、また少し、迷い考え抜いていた姉との会話の世界が遠のいていく感じがしたのだった。

母は先生訪問後も痙攣発作を起こしたが、先生からの指示どおりに私達は対応し、そして在宅酸素をした母は呼吸が楽になったといい、一日中眠っているのかとおもうほどよく眠ていた。
翌朝内藤先生からのお電話に、母の呼吸が楽になり、血圧が下がってきましたと報告できたのだった。
そして二日間眠りに眠り、嘘のように母の痙攣発作は治まっていた。

それからは徐々に体力を取り戻した母は、日一にちと、だんだん起きていられるようになっていった。
数日後訪ねて下さった内藤先生は「医学では説明できないようなことが起きるんですよね」と母の状態を見ておっしゃられたのであった。

病院の先生が何もできないといった、母のあの痙攣発作は何だったのだろう。今の母を見ていると、私も嘘のような出来事に思えるのだった。

痙攣発作が起きていた間、私に
「だれか楽に死ねるような薬をくれないか、死なせてくれ」
「死ぬこともできず、生きることもできず」
と苦しさを訴えていた母はもういない。
食欲も増し、テレビを見たり、窓際まで歩いてはいつも見慣れた風景を眺め、「何か食べたいものある」と聞く私に、果物の好きな母はいろいろな名前を挙げては「そうさね、桃を食べたいね」「モモは今の季節にはないの」「じゃ梨しかないか」と私達と笑い合い、穏やかに過ごす母であった。

内藤先生は、母の苦しみを取り去ってくれただけではなかった。私にとっても内藤先生が、私の後ろについていくださるという安心感は、私の不安感を薄め、母をあるがままに受け入れられる精神的余裕となって表れていたのだった。一人の医者の存在感の大きさを、身をもって感じさせられたのは、私にとって大きな発見であり感激であった。

死の前日の母は、朝から気分がよく大好きなお風呂にも入り、ああいい気持ちとうれしそうだった。そして翌朝トイレの後もう少し寝るという声を最後に眠るように息を引き取ったのであった。
私達家族にとって、何にも代えがたい濃密な47日間だった。

日本でも医師の協力や、看護師の支援を受け、在宅介護を続けている家族もたくさんいると思う。反面、母のような事態〈状況〉もあるということも、また事実なのである。

死を迎える人を取り巻く環境も様々であることからも、在宅介護のやり方はさまだまな形があると思う。
また在宅介護はひとりではできないということを、私はドイツ社会の中で教えられた。

在宅訪問のできる医師や看護師、家族や知人の助けや、時にはボランティアの支援、社会システムの中での支えがあって、初めて成り立つことなのだ。一人で背負い込むことはできないのだということをみんなが認識し、励まし合い、助け合える社会環境を育てることが大切だと思う。

「痛みや、苦しみがなければ在宅で看取れるのだ」ということを、そして在宅介護だから、医師と看護師、家族が一緒になって、たった一度しか与えられない永遠の別れの時を、慈しむことができるのを真っ当出来るのだと思う。内藤いづみ先生のような方が、おられることを思うと、大勢の人達が、死を身近なものとして捉え、受容する勇気をもち、それがまた、内藤先生のような医師を、一人二人と社会の中に増していくことにつながていくのではないだろうか。

私達は医者から多くのものを与えられるが、また私達患者と家族の側からも求めることによって、多くの医師もまたよい環境も生まれ{育って}いくのだと思う

最後に日野原重明先生が著書に書いておられた、「人間はどんなに幸せだと思えるような人生でも、死を迎える一二か月が不幸であったなら、その人の人生は不幸だと思える」母を看取って、昔、何気なく読んでいたその言葉がずしりと、私の心にひびいてくるのだった。
(以上が樋口さんの手記)


日本に英国から学んだホスピスケアの中身を伝え、大阪の淀川キリスト教病院で早い時期からホスピスケアの実践をなさった柏木哲夫医師が、1991年にこんな発表をしている。今でも私の心に残っている。

まず、1991年の時点で日本では、末期までずっと積極的治療を求めるということを仰っている。つまり諦めない。もうなんの治療法もありませんよ、と言われても、1パーセントでも望みがあるのなら、新しい治療を輸入してでもいいからしてくれ、と言う患者さんがたくさんいる。

二番目。病院の方が安心して居られる。何かあった時、ナースコールを呼べばすぐ看護師さんたちが駆けつけてくれる。家で具合が悪くなったらどうしたらいいか分らない。

三番目。家族が家で看病できる自信がない。がん患者さんたちは、中には色んな管を付けたり、痰を吸引したり、点滴を抜くなどの医療行為をしなければならないことが生じる。そういう様子を見て、家族はとてもできないと尻込みしてしまう。

四番目。核家族が増えて、家に帰って行っても看護をしてくれる家族がいない。

五番目。イギリスの様に住環境が広くないので、日本ではほとんどウサギ小屋である。これは、柏木先生の意見。だから、そこに病人が生じてしまうと、他の家族が住むスペースが無くなってしまう。

六番目。保険適用がない。在宅で診てくれるお医者さんがいない。

七番目。在宅ケアのことをよく知っている医者や看護師が多くない。

この七つを1991年に柏木先生が発表している。

現在、日本の末期ケアの現状は変わっているだろうか?

一番。末期までの治療を求める。これはあまり変わっていない様に思う。治して欲しい、何とか良い手立てはないだろうか。この心境は大きく変化していない。

また二番目。病院の方が安心。このお気持ちもまだ根強く残っている。

三番目。家族が自信がない。これもあまり変わりはないかもしれない。ではどうしたらいいか。家でも大丈夫。家族でもできる。そういうことをサポートしてくれる看護師や医師のチームがいれば、この二番と三番はかなり改善することができる。

四番目。核家族。ここはもっと酷くなっている感じだ。私の住む地方都市でも、老老介護、もしくはひとりで住むご老人が大変増えている。そういう方たちが家に帰った時、重病でどうしたらいいだろうか。お元気な時に、病気が重くない時に身内だけでなく、ご近所や友人を含めたネットワークがあるかどうか。このネットワークがあれば、たとえ老老のおふたり住まいでも、最期までお家で過ごせた、そういう方たちを私は知っている。皆さんのケアの人脈が重要。

五番目。ウサギ小屋では在宅ケアはできない。私は色んなお家を見ている。玄関からずうっと広いお家もあるし、本当に小さなお家もあるし、アパートもあるし、色んなお家に皆さんお住まいだ。そこに病人が寝ていても、工夫でそこは家族が暮らす空間となり得る。家が小さい。これは在宅ホスピスケアをする上で、マイナスの条件にはならない。

六番目。保険適用がない。これは大きく変化した。国は病院よりお家へ。もし病気が安定したらお家へ。そういう流れで在宅ケアを支援している。昔は保険適用が本当に少なかったが、今は在宅ホスピスケアや色んな在宅ケアにしっかりと保険適用が付いている。

七番目。在宅ケアを実践できる医者や看護師が増えたか。ここは昔より増えたと言える。私を含め色んな医者たちが、お家でいのちを看取るということは何なのか、亡くなる方たちの希望を支えるということは何なのか、小さな小さな声を各地で上げている。国のシステムは1991年からみて変わった。しかし、いのちの最期の現場の一番大切な部分(支える人と本人)は変わったのだろうか?

ドイツの介護保険と高齢者の暮らし

構想に20年以上を費やしたといわれるドイツの介護保険制度の骨格が公表されたのは、1991年であった。公表と同時に制度運営にあたり誰がどのように負担し、支払うかが大きな焦点となった。歴史的に国民に馴染みやすい、ビスマルクによる「世代間契約{Generationsvertrag}」と、国民経済学の哲学理念「連帯{Solidalitaet}」を基とした社会保険の構築を掲げる政府と、すでに多額の社会保障負担を負う雇用側との調整{祭日を一日削除することで合意}など、さまざまな地ならしに更に三年の歳月をかけ、ようやく1994年公的介護保険制度がスタートした。

20年以上ドイツで看護師とし働き、職業上からドイツ介護保険動向に着目してき、昨年日本の地方都市で母の介護生活を経験した筆者は、両国の制度における基本理念の違いを痛感し、高齢者とその家族の視点からドイツの介護保険制度を紹介したいと考える。

ドイツの介護保険制度は、{年齢に関係なく}身体機能が衰え日常の基本的な暮らし{洗面、衣服の着脱、食事、排泄、移動}の最低限レベルが、介助無しでは維持できなくなった者のみを対象としている。そのため、最低限の生活の質{Grundplege}を支えることが目的となっており、自立支援や介護予防を理念においた、日本のトータルサービスとは全くことなった視点に重点を据え、財政面をしっかりと見据えての、パートサービスといえる。日本とはその点が大きく違っている。

ドイツでは必要な援助項目が時間数とともに細かく定められていて、あまりの細かさに笑いを誘う面もあるくらいだが、あくまでも暮らしを支える最低レベルの援助に留まっているため、日本の「サービス」という表現にはいささか違和感を覚えたし、ドイツではとても要介護者に認定されない軽度な人も、自立支援という観点からデイサービスに通い散歩する姿はとても印象的だった。

歴史的にみるとドイツにおける高齢者介護は1950年代は家族が中心だったが、60年代は老人施設入所者が徐々に増加していき、社会福祉法人や宗教団体による老人ホームの建設が進められていった。

1975年にドイツを訪れた筆者は、キリスト教系の老人施設の庭には花が咲き乱れ施設内は広い空間と談話室、部屋は個室、二人部屋があったが、どのお部屋も個としての尊重が保たれている雰囲気や、スーツやワンピースに身を包み、車椅子で移動する高齢者の姿に驚いた。当時の日本では、病室の延長のような大部屋で「寝たきり老人」という言葉が、普通なこととして聞こえていた時代だっただけに、ほんとうに衝撃を受けた。

しかし「すべての人を公平に受け入れる」という福祉理念に基づき、財産に関係なく希望者を受け入れていた老人施設は、全て自己負担であったため、高額な施設費用を年金や財産で負担できず、増加する高齢者に伴い、生活保護者が増大し、それに伴い社会扶助の負担を補う地方財政圧迫は、90年代初めには、抜本的改革が急務となっていた。

ドイツは民間主導で展開されていた高齢者介護を、国民全体で負担する社会の制度として定着させること、併せて緊急の課題である財政問題解決のために、過去の経緯から、高齢者対策のどこに重点をおくことが、高齢者介護に最も必要なことなのか、また、財政面からの救いとなるのか、しっかり把握してのドイツ介護保険制度の展開となっていったように感じさせられる。そのうえで施設入居者には介護保険給付適用者となる、要介護最低1の認定者だけの入居とし、介護保険の条文上でも「在宅介護を優先、できるだけ長く住みなれた環境で生活する」ことを大前提として掲げており、家族をしっかり組みこんだうえでの介護保険制度となった。政府は介護保険公表時に「在宅介護における介護者はプロではなく、現在、将来的にも家族である」とアピールし、在宅介護に果たす家族の役割の重要性を強く訴えた。

ドイツの制度では、必要な援助を時間換算し現物支給額と現金支給額を設定しているが、要介護者がその時間内の支援だけで24時間の生活を維持できないことは明らかで、近くに見守る人(家族)がいることを前提としていることは、制度設計上も明らかである。

Quell Bundesuminisuteriumu fuer Gesundhait
































要介護度時間数現物給付{ユーロ}現金給付{ユーロ}
要介護1

最低一日一回
身体介護に最低46分
家政44分
420215
要介護2

最低一日三回
身体介護に最低120分
家政60分
921420
要介護3

一日中、夜間介護が必要
身体介護 最低240分
家政60分
1.470675
重篤事例最低一日6時間
最低夜間三回
かじ援助常時
1.918常にプロの援助を必要とする。


介護保険導入時の日本は「介護地獄」という言葉で表現され、特に妻や嫁、娘という女性の負担だけに依存することへの批判や、現金給付がむしろ家族を縛ることに繋がると危惧された経緯もあり、「介護の社会化」を合言葉に家族の存在を薄めることがむしろ求められたように感じられる。

このようにドイツと日本では制度成立時の理念と目的に明確な違いがあり、それがその後両国の高齢者と家族の暮らしの場での制度の捉え方に、大きな違いを生んでいくことになったといえよう。

現物給付を選択したカーリンは71歳。93歳まで自立していた母親のベアーテさんが脳梗塞で倒れ、要介護2の認定を受ける半身不随状態となって以来在宅介護を始めて3年目になる。訪問介護ステーションからの看護師が毎朝7時頃に来て、彼女の動く左手を使わせながら自分でできる部分清拭、洗面、着替えをさせ、車椅子でテーブルまで移動、朝食を用意、食べ始めるまでの介助をしてくれる。

体重が80キロ近くある母親を、毎朝起床の介助から手際よくしてくれる熟練したスタッフに、カーリンさんはとても満足している。家庭医{開業医}も三か月ごとに訪問してくるし、リハビリ―担当者が週二回の訪問で、機能低下予防{医療費負担}もしている。さらに、訪問介護人が夜8時頃に来て就寝の介助をしてくれる。

「こんなに面倒かけて、カーリンがかわいそうで」と筆者に話すベアーテさん。2ヶ月前に他界した筆者の母も、生前そっくり同じことを私に言っていたのが思い出され、胸がいっぱいになった。要介護者になった母親の胸中に国境はないようだ。

現金支給を選んだウルリケは68歳で、99歳になる母親を自分で介護して二年。「母は97歳のクリスマスにお菓子をいっぱい焼いたけれど、それが最後のお菓子作りになってしまったの」と語る。その頃は歩行器で家の中の移動できていたが、じきに歩くのも立つのも大変になり、援助なしでは生活できなくなった。要介護1の認定を受けたのを機に、ウルリケは夫と話し合い母のマンションに移り住み、選択肢の一つである「現金給付」を受けて介護にあたることを選んだ。一年前から身体機能低下が進み起きる事もできず移動は車椅子。水分摂取が十分できずPS{胃婁}により一日1000CCの水分補給が必要となった段階で、要介護2の認定がおりた。

ウルリケは介護研修{介護保険研修費負担}を受け、引き続き「現金給付」で親を看る決心をした。「訪問介護」も考えたが、予定時間より一時間以上も遅れて来たりする介護人をイライラしながら待つよりは自分でしたほうがいいと思ったとのこと。夜や外出する時だけ、[自己負担]だが訪問介護ステーションに頼むそうだ。

家庭医は週一回ビタミン注射をするために訪問して来る。訪問ステーションからは月一回より看護師が来てくれ[無料サービス]として状況を聞き相談にのってくれ、いろいろとアドバイスしてくれるので心強いと話す。

「明日は母の散髪に美容師さんが来てくれることになっているの」と、リラックスして語るウイルケさん。これが新たな自分の職業だと明るく語る。自信を持って母親を介護していることを感じさせられる。

要介護者の家族の生活も様々な変化をともない、負担は計り知れない、しかし税金投入なしの介護保険料率だけで財政維持を続けるドイツの介護保険は、家族の支援を、しっかり組みこまなければ成立できないのも事実である。現在要介護者の70%は在宅であり、在宅の90%は家族介護によって支えられている。また財産有無に関係なく公平な介護保険給付は、急激な財産減少の歯止めともなり、1993年からの10年間で生活保護を受ける要介護者は、67,5万人から32.5万人に減少し、2007年には29万人とまた半減以下になった。施設入居者も介護保険給付により、社会扶助者は半減したといわれる。

これらの数字からも介護保険導入の目的であった在宅介護と財政負担の軽減は、概ね達成できたことがわかる。

昨年日本の地方都市で3ヶ月あまり母親の介護をした筆者は、日本の制度は、ドイツと比べると、在宅介護を行うための、支援が不足してい、またドイツと大きく異なる、社会的システムの希薄さを強く感じさせられた。

また周りの女性達が「家で親を見るなんてとても無理」「介護保険があるから困ったら国がみてくれる」「老人施設の人が、勧誘に訪れる」と話しているのを聞き、、財政面を重視しつつ、介護保険制度の充実を緻密に構築してきているドイツの介護保険制度を知るだけに、一般市民がこんな気楽な認識で大丈認夫なのだろうかと不安になってしまったほどだ。

ドイツの制度にももちろん多くの課題はある。ドイツでは税金の投入が行われていないため95年は1%[労使折半]でスタートした保険料が、2008年改正により1.95%、子供のいない人は2.2%になった。この保険料率の増額により、税金投入は回避されることとなった。2015年以降は需要額が保険料を上回るため調整が必要であることを明記している。

また、今までは身体機能障害を伴わない認知症は、介護保険の枠から除外されていたが、五年前から各自治体は、認知症介護支援のモデルプロジェクトを立ち上げ、模索を重ね、ボランティアの人材育成に取り組み、ボランティア参加のデイサービス、在宅支援サービスを社会に定着させてきている。また昨年の介護保険法改正により、要介護認定の改正が行われ、認知症適応による「要介護0」でも、介護給付が受けられることになった。

80%の認知症高齢者は家族が見守ってき、これまで民間主導で支援され続けてきた認知症も、14年目にしてようやく介護保険給付対象となったのである。

ますます増加する高齢者推移を見ても、財政にも限界があり、大きな社会問題となる波乱を秘めている分野であることがわかる。ボランティアが福祉を支えているとまで言われているドイツで、増加する高齢者を支えるボランティアの活動は、その意味でも、ますます重要な存在となっている。これからも「一に家族、二にボランティア、三に行政」というドイツの社会形態は変わらないだろう。

要介護者推移 在宅介護者




























































年数要介護1要介護2要介護者3合計
965084625073291463931162184
27529334359241272351289152
37333024246821234141281398
47461404266321230391231811
57591144258431245491309506
67679784186171231561309751
78046284268551267181356299


* ドイツの介護保険は、年齢に関係なく、要介護者と認定されたすべての人に介護給付は適用されます。
* 老人施設入居者は高齢者数とみられますが、在宅介護は07、12,31表示された年齢別要介護者数統計から60歳以下の要介護者は276,904人おります。
1,356.299-276.904=1,079,395人が60歳以上の要介護者となります。
06以上の年齢表がありませんので07から、高齢要介護者をご想像してください。

要介護者推移 施設入居者




























































年数要介護1要介護2要介護者3合計
96111856162818109818384562
2230383249600119834599817
3237907254477121635614019
4245327258926124639628892
5251730262528128189642447
6265294264492128968658754
7273090266222131772671084


Quelle: Bundesministerium fuer Gesundhait 厚生省