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在宅ホスピスケアと看取り


病院2010年7月号 特集「死生観が問われる時代の医療」より
「もう治らない」と宣告された末期がん患者さんたちを前に、役に立てない敗北感と無力感に囚われた新米医師の私は25年前、ホスピスケアという分野に出会った。私自身が救われて、それ以来ずっといのちの学びの旅を続けてきた。
 英国に1980年代末から数年暮らす間に、細分化された病気への対応ではなく、体・心・社会性・スピリチュアリティというトータルな存在としての人間のトータルペインを緩和するホスピスケアの真髄に触れることができたのは幸せだった。以後、帰国して15年以上、日本での在宅ホスピスケアの普及に努めてきた。


 現在、日本ではホスピスケアはがん治療の一部の緩和ケアとして認められ、全国に続々と専門病棟も建てられている。山梨県にも数年前、県立中央病院に緩和ケア病棟が創られた。私が味わった敗北感は昔のこととなり、末期がん患者をサポートする体制ができてきたことは喜ばしい。
しかし時折、緩和ケア病棟での患者さんたちの様子を見て、時に違和感や割り切れない思いが生じてしまう。
それはなぜなのか、この機会に考えてみようと思う。
1980年代から高まった英国でのホスピス運動に、私は住民として直接触れた。病気に人生を打ち負かされそうになった患者が、医療に管理されるのではなく、いのちを自分の手に取り戻し、ホスピスケアのサポートを受けて最期まで自分らしく生き抜く-その自立への支援がホスピスケアだと私は学んだ。英国では、最期までホームドクターのサポートで、在宅で過ごすことも独立型ホスピスで過ごすこともできた。
 シシリー・ソンダース女医やトワイクロス医師の大きな力もあり、がんの体の痛みを安全かつ的確に緩和する鎮痛の方法も確立されつつあった。それは驚きだった。私が日本で研修医をしていた頃は、やっとプロンプトンカクテル(モルヒネとコカインの水溶液ミックス)で痺痛緩和を始めていた。また、内科ではがん告知はほとんどしていなかったので、真実を隠し、患者主体とは言い難い状態で、患者さんの希望に寄り添うことも叶わなかった。
 そんな昔のことを思い出しながら、現在日本中に広がる緩和ケア病棟に‘‘いのちの自立’’への視点がしっかりと根付いているのかどうか、患者自身にいのちの主人公としての揺ぎない自覚があるのか、それを問いかけたい思いが湧いてくる。長年慣れ親しんだ高度医療の前に心が萎縮し、自分のいのちに向かい合うのが怖くて、医療に依存しすぎる傾向もありそうだ。緩和ケアが鎮痛や症状緩和のマニュアルに傾きすぎていないだろうか、終末期に安易にセデーション(鎮静)が行われているのではないか、などと心配になる。終末期こそ家族と本人がいのちと向かい合い、看取りの意味を学び合う大切な時なのだ。
緩和ケア病棟が日本中で広がる前の頃
 ホスピスケアという言葉は20年前の日本では耳新しいことだった。
末期がんで最期まで家に居られることを多くの人は想像できなかった。
入院で亡くなる人がほとんどだった。私の講演や著作を通して、ホスピスケアのことを知った患者さんや家族が直接、紹介状を持たずに相談に来た。当時としては珍しく、告知を受けた方がほとんどだった。つまり、この方々は人任せにせず、自分で考えてホスピスケアを自分で選んだということだ。その特徴は次のようなものだった。
 ①患者さんの医療不信(医師不信)が大きい(痛みが緩和されず、苦しんだ経験がある。末期がんで積極的治療がない、と見捨てられたような対応を受け、傷付いた経験がある)。
 ②積極的治療をかなり限界まで受けて衰弱し、もうこれ以上継続したくない。今までの病院の治療は終了したい。病院でのケアへの不満があり、できる限り残りの日々を家族と共にいることを希望した。
 ③医療機関の連携協力の姿勢が乏しかった。
 今となっては信じられないことだが、多くの医師たちにモルヒネやホスピスケアへの偏見が根強く、患者の紹介状すら快く書いてくれないことも多かった。
【事例】45歳のFさんのケース
 大腸がんだったFさんは、3年ほどの闘病の間にストーマになり、がんは肝臓にも転移した。告知はあった。Fさんは体験を次のように手記にして私にくれた。
 退院して2ケ月目、医師から希薄発の予防のため放射線をカ、けるように言われた。放射線の害は凄まじい、もので私の体は弱り果て、副作用でガタガタになってしまった。予防のためだとしたらあまりにも副作用が大きすぎる。あまりにもつらすぎる。胃腸障害、拒食症、腸の癒着、栄養不良、尿失禁、皮膚の爛れ 性欲不能など、後々まで残る後遺症もあった。
医者はどうして本当のことを言わないのか、どうして何もかも隠そうとするのか、私はだんだん医者が信じられなくなっていった。もし、きちんとした説明を受けていたら、自分の未来の方向を自分で選べたのではないか、と思った。
 放射線によるさまざまの害からようやく立ち直りかけた頃、夜中に猛烈な腹痛が起こった。
腹の中心が締め上げるように痛み切り取ってなくなったはずの直腸に便が詰まったように苦しかった。
 7月の初め、私はまた入院してしまった。
今度は前回の手術と放射線の後遺症の影響により腸が癒着したために起きた腸閉塞だった。
3度目の手術が行われたのは10月の終わりだった。今度の手術は私にとって、以前の2回とは比較にならないほどっらい苦しいものだった。7月に入院して術後lケ月くらいまでの間に、私が味わった心の恐怖と身体の苦痛は思い出すのも恐ろしい。それは、もし私が罪悪人で神様が私をこらしめるために体験させたのだとしても、こんなことはたとえ神様でも許されることではないと思えるほどつらく長い恐ろしい日々だった。3ケ月間絶食で点滴だけで過ごした。この日々のことは今でも思い出したくない。
10月24日、私は無理を言って病院を退院させてもらった。点滴も外れて、自分で外も歩けるようになり、もう-日でも病院にいたくなかった。-日でも早く家に帰って子供たちの顔を見たかった 妻や子供たちと-緒にいたかった。私の大切な日々を一番愛する者たちと1分でも長く-緒に過ごしたかった。そんな頃、内藤先生の講演を聞き、色々と納得し、内藤先生にこれからのことをお願いすることにした。
 引き受ける際に2つの約束を交わした。
●真実を隠さないで説明すること。
●痛みは必ず取ること。
「がんの痛みは自分らしさを打ち砕いてしまう。ここまで病気と闘ってくると、死ぬのはもう怖くない。
ただ、痛みのために家族の心に向き合えなくなるのが怖い。いのちの最期に大好きな家族に『ありがとう』と言いたい」。そうおっしゃった。
 脳に転移したことを告知し、痛みは鎮痛薬で最期まで緩和することができた。2つの約束を何とか守ることができた。Fさんは病床で奥さんと穏やかな最期の日々をお送りになった。
死は精一杯生きる今の積み重ねの結果である
 当時は医療不信から病院に入院することを拒否する患者さんが多く、病院との連携もないまま私もナースと共に必死でがん患者の在宅での看取りを続けた。そして、いのちの自立への支援としての在宅ホスピスケアのすばらしさを知り、その啓蒙を決心した。在宅という場は、暮らしの大きな力があった。山梨県という土地にコミュニティや家族の力が当時は残っていたことも大きなプラスの要素だった。
 長年私と往復書簡を交わしている米沢慧さんは「ホスピスケアは医師と患者の平等意識だ」と言う。確かに病院という機構の中では‘‘患者様が主人公です”と言われても、患者の立場では平等意識は持ちにくい。
私自身、白衣を脱いで往診し、相手のライフスタイルの場で患者さんの傍に座り、一緒にお茶を飲んで心を開き話しこんだ時、不思議な解放感を感じたものだ。
 振り返ってみると、多くの患者さんは穏やかな日々を過ごし、平和にお亡くなりになった。それができたのは、私たちに患者さんの痛みを媛和する実践力があったこと、そして、私たち自身にそれなりの「死生観」があり、患者さんに不安を与えない強さと明るさがあったことが関係していたかもしれない。私には「死」が絶望とか敗北とは思えない。死は精一杯生きる「今」の積み重ねのプロセスのゴールではないか。「今」という時に気持ちを集中し、「今」をポジティブに選択して生きることができたら幸せだと思っている。それが私の目指す死生観でもある。
 65歳の男性がひとつ年上の妻を看取った感想をこう述べた。
「本当の夫婦に初めてなれた気がします。妻が最期の力を出し尽くす数日に、必死に寄り添えたから。僕も死にそうな位大変だったけれど。大満足の気持ちです。後悔はありません」。
 呼吸困難など必要な時もあるが、終末期に薬物で深くセデーションをする時は、よく考えてほしいと思う。
相手が深く眠ってしまっていればある意味、ケアは楽かもしれないが、私の患者さんではあまりセデーションはしていない。赤ちゃんを生む時に、皆で声を掛けて腰をさすって妊婦を励ますように、皆で逝く人を囲み「ありがとう」と声を掛け、手をさすり、旅立ちを支えていく。死ぬプロセスは本来お産と似ているものなのだと感じている。
時代に合った現実感のある看取り
 緩和ケアが全国に広がった今、病院との連携はかなりスムーズにできるようになっている。国の方針もあり、痛みの緩和の実践力も医療者についてきた。何より、患者さん自身が告知を受けて治療を自ら選ぶことが主流になった。‘‘治りたい”という思いは昔より強くなり、積極的治療や代替療法などをぎりぎりまで続ける人が増えたように思う。緩和ケア病棟に入院する人は、かなり末期になっていないだろうか?全国的にも平均入院期間はかなり短いと思う。私たちの住むコミュニティも変化している。老人のひとり暮らし、ふたり暮らしが増え、中には認知症同士のこともある。在宅でいのちを支える若い家族が減っている。
 介護保険が10年で浸透し、家族がいてもヘルパーなど社会的援助に頼ることが増えて、在宅でもケアのアウトソーティング化が進んでいるように現場にいる私は感じる。家族と共に必死にいのちに寄り添った昔の私たちの在宅ホスピスケアとは形が違ってきている。あの頃、看取りとは、家族が一緒にいのちを削るような思いで力を尽くして、愛する人をあちらの世界へ送り出す仕事だった。どちらがいい、という話ではない。時代は変わる。私たちは今までの形にこだわらず、新しい形のコミュニティや家族の形(隣人や友人などを含めて)を作る時がきているかもしれない。時代が求める現実感のある看取りの形を考えていきたい。
死生観をいつ育てたらいいのだろうか?
 いのちの誕生もいのちの終わりも病院の中にあり、暮らしの中では見ることが減った。平和な日々を過ごし、さていよいよ老いやがんの告知やいのちの最期が近づいた時、自分の中に死生観が育っていないことに気付きうろたえる。そんな構図が現代の日本には多く見られる印象がある。しかしながら、在宅で最期の日々を過ごし、皆の支えの中で自分のいのちに向かい合った時、「別れが近づいてありがとうとさよならが言える自分に驚いた」という患者さんが多い。私にもその心境の変化が自然に見える。
 ターミナル期のそんな短い間に、死生観が育つのだろうか?死に逝くことは、お産に似ているかもしれないと私は感じている。お産のプロセスで妊婦は少しずつ自分の中でいのちを育て、いのちの成長を自覚し、そしてやがて臨月を迎え、もうこれ以上ひとつの体でいることはできない、産む時が来たと悟る。それと同様に、心身の苦しみを緩和して生き抜くプロセスで、本人の持つ力を尊重していくと、本人がやがていのちの最期が来たと疑いなく体の声を聞き、気が付く時が来るのではないかと思う。そんな時間を与えられたがん患者は、ある意味幸せだとも思う。
人生の最期に、縁ある誰かに「ありがとう」「さよなら」と言えるために、その誰かを元気な時から見つけましょう・・・と発言していきたい。誰でも安らかに亡くなれる道がある。
そんな可能性を在宅の看取りで教えていただいた。


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