米沢慧さんとの往復書簡

往復書簡(米沢慧様)Vol.7 復

ちょっと仕事に追いまくられて満開のさくらを目前にしての返事になってしまいました。今回は岡村についてふれてほしいという提案でしたが、3月といえば、岡村の命日(3月24日)。没後24年にして生誕80年! 恒例になっているAKIHIKO忌の集いも各地から70人ほどの参加者があり、二次会も盛り上がったのですが、どうやら21世紀になってもオカムラ・アキヒコは健在です。


すでにここでも紹介しましたが、本年の第33回日本死の臨床研究会年次大会(11月7~8日 名古屋国際会議場)初日のメイン企画テーマは〈ホスピスへの遠い道 その歴史と現在・未来~マザー・エイケンヘッドと岡村昭彦〉。
日本のホスピス運動黎明期の1980年代はじめに「日本式ホスピスはわたしにはがん病棟としか思えない」と痛烈に批判し「死の臨床の真髄は平等意識です」と指摘した岡村のホスピスへのミッションと、岡村がわが国に紹介した近代ホスピスの母マザー・エイケンヘッドの精神を捉えなおすシンポジウムということになりました。
わたしも参加しますが、もうひとつ今回は《岡村昭彦報道写真展 生と死―戦場からの報告》を同時開催することになったことが大きいです。100枚ほどの戦場の生死写真パネルからホスピス運動がどうとらえられるか、また平和運動とホスピスという問いかけも可能な画期的な試みになりそうです。この企画ではいづみさんにも会場でトーク参加をお願いしました。たのしいイベントにして成功させたいとおもっています。よろしくお願いします。
さて、その岡村に縁のある諏訪赤十字病院で講演があったそうですね。
「自分の人生を振り返り、自分の人生を再確認すること」、それが死ぬまでの5つの課題の第一課題だといういづみさんのことばにしたがえば、わたしにとっては、諏訪赤十字病院が振り返り再確認する手がかりになる重要な場所なのです。岡村の縁とは毎月一回10時間という「21世紀の看護を考える諏訪セミナー」が1年間続いた場所だったからです。だから、結果として私が彼の活動を引き継ぐことになった運命的な場所、往路の人生から還りのステージへ踏み出す契機となったところでもあるのです。
四半世紀まえ、もう25年前の話ですが、セミナーの成果としてあげることができるのは「あなたは、ひとりぼっちではありません」「お世話させていただくのは私たちです」 と、看護師の呼びかけから始まる本邦初の『入院あんない』をつくったことでしょう。
いまなら「入院のためのガイドブック」といったところでしょうが、当時はどこの病院にも病院案内はあっても入院案内などはありませんでした。あったのは、していけない・やってはいけないといった「患者心得」と「入院心得」しかなかった時代のことです。
 この「入院あんない」は当時、諏訪赤十字病院の看護部長をトップに委員20人の看護婦たちによって足掛け4年かかって誕生しました。これは岡村が主宰していた看護教養ゼミ(1983年4月~1984年4月)の卒業制作として刊行されることになっていました。この間わたしは岡村ゼミのアシスタントとして、また「入院あんない」の編集制作のアドバイザーとしてゼミに関わっていたのですが、かれが急逝した1985年春以降は、指揮者のいなくなったオーケストラをまえにして、思いがけずわたしが態勢を整えて制作を再開するバンドマスターの役割を担うことになったのです。
「入院あんない」のお手本に選ばれたのが、岡村がアイルランドから持ち帰ったセント・パトリック病院の「入院案内」( 縦25センチ横19センチ、表紙は2色。イラスト入り24頁。1980年版)でした。
セント・パトリック病院は『ガリヴァー旅行記』で知られるジョナサン・スウィフトの理想と願いにしたがって18世紀半ば に創始された精神病院でした。
 精神病院の入院案内がお手本になったのにはひとつには「患者の入院生活、患者の日常を支えること」、また「健康とは肉体の健康だけではなく、こころの健康というのが大切だ」という観点から患者への態度が明確だったからでした。
 そのため、看護師たちは分担して辞書を引きながら入院案内を翻訳するところからはじまったのです。当時の日本ではまったく考えられなかった「患者と医師は平等だ」というメッセージが案内書の見出しやその説明を通して伝わってきて、みんな興奮していたことがおもいだされます。
そこから「21世紀の看護をめざす」という考え方は「患者が中心の看護」ということに向いていったのです。そして、納得できる医療を患者自身が選択できるという「インフォームド・コンセント」という考え方についても、岡村はいちはやくバイオエシックス(生命倫理)と重ねて説いていたことも忘れられませんね。
この32頁の『入院あんない』は作成後はすぐに病棟のベッドにおかれてひろく患者に利用され、また看護師たちの大きな指針にもなっていきました。10年後の1996年にはその成果が『看護学雑誌』で特集され(「看護婦がつくった入院案内 諏訪赤十字病院の取り組み」7月号)、話題をよび各地の病院で「入院あんない」がつくられるきっかけにもなったのです。ふしぎなことに、こ反響が機縁となって諏訪の岡村ゼミは諏訪米沢ゼミというかたちで世代交代をしながら、あらたに富士見高原病院をはじめ諏訪湖周辺の看護師・介護士らも加わっての和やかな勉強会として定着し毎月1回、わたしは季節の風を感じながら出かけるのが愉しみになってすでに10数年、ちなみに今年のメインテーマは「いのちへの配慮」で、4月はM・フーコーの『臨床医学の誕生』からヒントをえて「いのちのすがた・かたち」について考えてみようとおもっています。
○アキヒコ伝説について
オカムラ・アキヒコがなぜ再び脚光を浴びるのか、これについては死の臨床、あるいは緩和ケアあるいはホスピスという視座が医療のテーマに終始しておさまってしまったこと、私流に言えば「いのちへの配慮」という肝心なことが二次的になっていることと関係しているようにおもいます。
その一方でわたしがなぜ諏訪ゼミを引き継いで、さらに各地で小さな勉強会をひらいているのかを考えると、それは岡村昭彦の膂力、AKIHIKOという磁場だろうなあとあらためて感じるのです。ある講演で岡村にふれてわたしは「この人となら、人生棒にふったっていい、そうおもったことがある」と口をすべらせて失笑をかったことがあります。
岡村との出会いは編集者と著者という出会いでしたが、ダーウィンの『種の起源』(1859)とマルクスの『共産党宣言』(1847)の内容にふれようとした際に、どちらが先に刊行されたのか、という彼の問いにわたしは答えられなかったのです。それだけで彼は
「あなたには時代の結び目がわからない。世界を認識する視点がない」
「あなたは本を精神の産物だとおもっていない」
とわたしをいそいで編集者失格の烙印をおして、つけられたあだ名が“山陰の消し炭”でしたからね。
縁とはふしぎなものだとおもいますね。博覧強記の岡村昭彦没後四半世紀たってみると、いくつかの業績をならべるよりも身近に体験した姿を「アキヒコ伝説」として保存したいとおもうことがあります。実は、伝説化のヒントになりそうな物語があります。
一つはフランスの作家ジャン・ジオノ『木を植えた男』です。
『木を植えた男』は1953年アメリカの雑誌社から「これまで出会った、いちばん忘れがたい並外れた実在の人物について」書くように依頼されて書きあげたもので、木を植えた男の名前はエルゼアール・ブフィエ。概略はこうです。
1913年頃、海抜1200メートルから1300メートルほどの高地の荒れ地をひとり黙々と一日100粒のドングリを植えつづけていたといいます。当時55歳。鉄棒を地面につきたて、できた穴のなかにどんぐりをひとつひとつ埋め込んではていねいに土をかぶせる。そんな繰り返しで最初の3年間で10万個の種を植えた。そのうち2万個が芽をだしたが、2万個の半分ちかくがだめになるだろう。動物にかじられるか、予期せぬことが起こるかして。それでも、のこる1万本のカシワの木が、根づくことになるのだというわけです。第一次大戦が始まり、終わるが男はひたすら植える。ブナの木を植えて失敗し、カバの木を植える。また1万本のカエデを植えたが全滅した。そして再びブナの木を植えはじめて、ようやくカシワ以上にうまく育った。第二次大戦が始まり、終わる。男はひたすら木を植える。かつてはほこりまみれの強風が吹いていた一帯は、甘い香りのそよ風が柔らかくおしつつんでいた。水のせせらぎにも似た音が聞こえてきたが、それは木々のさざめく声だった…。荒野は森と緑野にかわり麓には美しい村ができた。
木を植えた男、エルゼアール・ブフィエは1947年、バノンの老人ホームでやすらかに生涯を閉じた…。
ところが、ブフィエなる人物がバノンの老人ホームで死んだ事実はなかった、つまり彼は実在しなかったのです。そのため原稿はボツ。ところがジオノは著作権を放棄してまでこの作品を公表します。作者は嘘の物語をでっち上げたのでしようか。そうではなく、ついに探り当てた森や木々の真実を保存するためにフィクションにしたのではないか、わたしは密かにそうおもっているのです。
もうひとつ「木を植える男」の話として宮沢賢治の『虔十公園林』です。虔十は雨や風にゆれる木をみて、あるいは空を飛ぶ鳥をみていつもはぁはぁ笑いながら歩いているので子どもらにバカにされています。ある日、虔十は杉の苗を裏の野原に植えたいと父親にねだります。父親は、虔十はいままで何ひとつだって頼んだことがなかったんだからと杉の苗を与えます。虔十はさっそく杉の木を植えます。みんなは荒れ地に杉など植えたって育たない、虔十はやっぱリバカだバカだといって笑います。
その苗がやっと大きくなると、隣の畑の持ち主の平二から畑が影になるとイヤがらせをされたりなぐられたりします。しかし子どもたちはその杉の下で遊ぶのを楽しみにします。虞十はそんな子どもたちの姿をみるのが好きになりますが、ある秋にチブスにかかってあっけなく死んでしまうのです。それから二〇年たって杉はリッパナ林に育ち、子どもたちは毎日毎日その下で遊んでいます。偉くなったかつての子どもの一人が故郷に帰ってきてこのりっぱな林の成り立ちを思い出して「いつもはぁはぁ笑っていた虔十という人が杉の苗を植えて、こんな美しい公園になった」といい虔十公園林と名付けることになったという話です。
宮沢賢治はこの話を「この公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂い、夏の涼しい陰、日光色の芝生が、これから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした」と結んでいます。これは「雨ニモ負ケズ」のデクノボウ讃歌に通ずる賢治の理想像でもありますね。
この二人の木を植えた男、ブフィエと虔十の伝説寓話を下敷に三人目の男としてAKIHIKO伝説にふれたいのです。
AKIHIKOは、ブフィエのように黙々と何かをやろうとした男ではありませんでしたが「直覚力」を大事にした人だったことはまちがいありません。
亡くなる半年前の『訪問インタビュー』(NHK総合テレビ・1984年9月18日)でも「歴史を見通す力は直覚力だ」とか、「直覚力が衰えていくと論理にこだわってしまう」「子どものときに直覚力を鍛えることが大事だ」「直覚力が鋭い人は80歳ぐらいになっても凛としている」などと連発していました。
戦場を取材した多くのカメラマンが死んでいくなかで、AKIHIKOだけはときにスクープ写真を手にしながらいつも帰還して“ミステリーマン”と呼ばれたのも直覚力の確かさを指していたとおもいます。
その当時、JR駅のプラットホームで彼と待ち合わせたときのことだった。白線あたりに佇っていた私の腕をつかむと「白線の内側なら安心だと思っているだろう。君のような直覚力のない文学青年は、戦場を取材するとね、すぐに死ぬんだよ」と怒っていました。
また、直感力ではない「直覚力」に関連してこんな話もしました。タイで目の不自由なお坊さんにあった。その人は、モノが見えないとは言わなかった。額で感じ考えることができるから、といったというのです。そして「直覚力というのは頭ではなくて、ここを使うんだよ」と、AKIHIKOはわたしの額を人差し指でペンペンと小突いたのです。
又いつもはぁはぁ笑つていた虔十とは違ってこぼれ落ちそうな瞳を左右にふって(それをアイ・コンタクトというのです)、「撃つな」「殺すな」「差別をするな」と遠方からきた兄貴のように声をかけ励まして去っていった人物でした。
そして医師にむかって「死を前にしている人に何もしないのは差別だと考えます」とか「患者の健康な部分に光を当てるのが仕事ではありませんか」といったことばを遺して、さいごは交通事故が専門の外科医院で事故死のように生涯を終えました。
AKIHIKOがブフィエや虔十と違うのは、わたし(たち)が同時代に目撃した「忘れがたい並外れた実在の人物だった」ということです。

今回はそんな岡村が遺した著作『ホスピスへの遠い道』の最終章で記述したある箇所を添えておえたいとおもいます。19世紀末マザー・メアリー・エイケンヘッドのミッションを受けてオーストラリア・シドニーにホスピスが誕生した経緯にふれながら、当時の新聞(ザ・オーストラリアン・メディカル・ガゼット・1898))からの挿話です。
〈イタリアとスイスを分ける、大きな山脈の頂上近くにセント・バーナードというホスピスがあり、そのホスピスはあらゆる国々で賞讃されている。
すばらしい鉄道のトンネルがこの山にできる以前は、セント・バーナード犬たちが、行き暮れた旅人をさがしに山上の雪の荒れ地へと出かけたものだった。
ある犬は外套を運、また別の犬はアルコールのビンを首に掲げ、さまよう人を見つけるとその人をホスピスへ案内した。あるいは、万年雪の雪線(最低境界線)に住む、信仰のあつい修道士たちの助けを求めて吠え立てた。
ある犬は、27名の生命を救ったしるしとしてメダルをつけており、人々はその気高い働きをみせた犬たちのすばらしい賢さと忠実さをこの上なくほめたたえていた。〉
 
穏和な性質で王者のような風格をしている救助犬セント・バーナードがホスピス誕生に深くかかわっていた…そんな原風景の温もりは忘れたくありませんね。
桜の季節です。ここ数年心ときめかせてでかける桜は清瀬・全生園内にある樹齢60年ほどの大きな3本桜。祈るようにたたずんでいるのです。今年もその前に立ちたいとおもいます。
次回は、資料として受け取った村上春樹のエルサレム講演録から、どんないづみさんの緩和ケアシステム論がきけるかたのしみにしています。
お元気で。