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見上げてごらん夜の星を

北海道経済 2012年11月号より

「上を向いて」リハビリ
 永 ぼくはいま、病人とけが人を両方やっています。去年の暮れあたりから転んで骨を折るようになり、体調も悪くなりました。ろれつが回らなくなって、北海道ではHBCラジオが放送している「誰かとどこかで」という番組にも「何言ってるかわからない。もう辞めろ」という手紙が来ました。悔しいから、もう一回、旭川青年大学に行こうと思ってがんばりました(場内から拍手)。
 ぼくはパーキンソン病なんですね。言葉が詰まり、指先が震えるので字も書けない。もうダメだと思ったんだけど、友達が励ましてくれるのでがんばっているんです。内藤先生からも、薬はあまりもらわないけれど、元気をもらっています。今回、2人で登場できて幸せです。
 リハビリにも行っています。日本では看護師や介護士が足りないので、アジアの若者を集めて、日本語を教えて、資格を取らせています。本当に彼らはがんばっています。
 ぼくのリハビリもインドネシアの若者が担当してくれていました。その若者は「永さんがんばりましょう。かかとに重心を置いて、背筋を伸ばして、視線はちょっと上」と、丁寧に、厳しく教えてくれます。「日本にはいい歌があります。上を向いて歩く歌です。知ってますか?」。私が「知りません」と言うと、彼が「上を向いて歩こう」を歌ってくれて、それに合わせて私が歩く練習をするんです。そしたら、他の患者さんはみんな目をそむけて、中には「お気の毒に」と泣いている人もいるの。
 後日、インドネシアの若者に「あの歌は、ぼくが作ったんだ」と正直に言いました。彼は私をじっと見てから一言、「また嘘ついてる……」。リハビリをやっている方は、つらいけどがんばりましょうねというのが、ぼくからのお願いです。
 最近、よく転ぶようになったので、友だちの小沢昭一が「たくさんの仕事を持っているんだから、ケガしちゃいけない」と、四谷の駅前で手を上げて、タクシーを止めてくれました。そのタクシーに乗って新宿に向かう途中、いきなり別のタクシーが飛び出してきて、ぼくの乗っているタクシーの真横にぶつかったの。ぼくの乗っていたタクシーは横転しました。近くの警察署からおまわりさんが飛んできて、「大丈夫ですか?」と質問します。
日本人は不思議なもので、そう聞かれると「大丈夫です」つて言っちゃうんだよね。大丈夫じゃないんだよ。逆さまになってるんだから。
 翌日、新聞やニュースでぼくの事故が伝えられると、みんなから電話がかかってきました。小沢昭一が「まさか、ぼくが乗せた車じゃないでしょうね」と聞くので「あんたが乗れと言った車に乗ったんだよ。そしたらこんな怪我をして」とぼくが怒ると「もう1回怒ってみて。昨日の夜よりも言葉がはっきりしている。
昔のラジオがひっぱたくとよく聞こえるようになったのと同じですよ。良かった、良かった」と言われました。

本音でぶつかる
 永 いずれ、命はなくなっちゃうんですね。周りも自分も良かったと思える死を迎えるためには、医者とお互い知り合って、相手がどういう医者か、自分がどういう患者か知ることが大事なんです。
医者、看護師とは仲良くならないとだめ。両方で気を遣い合っているようじゃだめです。
 内藤 とても大事なお話です。この時代、医療者と無関係で生きていくのは難しいですから。永さんは病院が大きらいで、お医者さんも信用していませんでした。でも次々と病気とケガを経験して、医師や看護師とも仲良くなりました。
 永 病気やケガをすると、命と向きあいます。死に方を考える。周りから「いい死に方たったね」と言われるためのトレーニングを我々はしなきゃいけない。ホスピスや在宅(医療)はとても大事。
そのためにはご近所や友だちが大事ということがわかります。
 医者になろう、看護師、介護士になろうと思ったとき、その人はとってもやさしい、いい人ですよ。
そうじゃなきゃなろうと思わない。医療者には、その時のことをもう1回思い出してほしいです。
同じように私たち患者は「ありがたいな」と思った時に戻ればいい。
 内藤 本音でぶつからないとだめですね。最期を任せられる医者を探すには、軽い病気のときにじっくり医者を見つけてほしいです。
 永 病気になったら、治してもらうだけでなく、患者として日本の医療に何かできるのかを是非考えてほしい。ケンカしたっていいんです。ぼくと内藤先生の間では、何年もかかってそういう関係を作りました。
 内藤 旭川のみなさんは、永さんがここに来るだけで大満足ですね。今回は7回目ですが、8回目もありますね?
 永 ハイ。(ここで永さんはいったん休憩)
 内藤 永さんは、渾身の力を込めてみなさんに本音の話をしました。しっかりと受け止めて、家に帰ったら、メッセージのエッセンスを書き記してくださいね。

ホスピスの取り組み
 内藤 私が永さんと20年前に会えたのは、ホスピスに取り組んできたおかげでした。この間に、ヨーロッパで始まったホスピスの「緩和ケア」の考え方は、世界中に広まりました。いま日本でも緩和ケア病棟が増えていて、体の痛みでのたうちまわることはない時代になりました。
 私がイギリスでホスピスを学んだあと、故郷の甲府に戻ってホスピスを開いたとき、最も理解してくれなかったのはお医者さんです。「医者の使命は病気を治すこと。治せない人を助けるのは医療じゃない」と言われました。私にとって時間はかかっても確実な方法は、この青年大学のような場所で一緒に学ぶことでした。命の主人公が変わらないと、世の中は変わらないんですね。
 永さんは、いじめられている私を見てかわいそうだと思ったらしくて、よく助けてくれました。そういう人は他にはあまりいません。奥さんががんであることがわかった時にも、自宅で看取るという、最高で幸せで、最高に難しい道を選びました。有名人のなかに、奥さんを自宅で看取った人が他にいますか?。
 私はこれまでホスピスの啓蒙活動を続けてきました。一つ階段を登ったと思うのは、昨年山梨で「ホスピス学校」を作ったことです。この学校に実体はありません。いつも違う「校舎」を使います。12月には甲府市で内田鶴太郎さんという素晴らしい絵本作家の講演会と勉強会を開くことになっています。
 ホスピスは命の最後ですが、では、命の最初はどうすればいいのでしょうか。いま、「おぎゃあ」と生まれることは、日本では簡単ですか? ちょっと田舎に行くと、安心して赤ちゃんを産める産院、産科がどんどん閉まっています。昔、日本にはどのまちにもお産婆さんがいました。今の言葉で言う助産師さんです。
お産婆さんの写真を大学生に見せたら、何をする人なのかわかりません。
「産湯」という言葉も聞いたことがないんです。
 お産婆さんがいたまちには、最期の看取りをしてくれるお医者さんもいました。いま、科学は進歩しましたが、一番大事なものをよく考えなければ、命のバトンを子どもたちに渡すことができないところに日本は差し掛かっています。

全力で支える
 内藤 (スライド画像を示しながら)緩和ケアを受けながら、こうやって、死ぬ間際まで庭造りをしていたおじいちゃんがいます。いちばんやりたいことは孫やひ孫のために美しい庭を作ることだとおっしゃっていました。おじいちゃんの周りには胆の据わった家族と、サポートする医療者がいます。おじいちゃんを、勇気をもってみんなで支えました。
 幼稚園児の孫は、おじいちゃんに重湯を一口食べさせてくれました。命が終わるとき、本人にはそれがわかります。それまでおじいちゃんはさじを舌で押し返していたのに、かわいい孫が「おじいちゃん」と呼びかけたら、ごくんと飲み込みました。命が1さじ分伸びたと、おばあちゃんは喜びました。医療者はすぐ理屈を言いますが、目の前にいる人たちが、命の最期をどう過ごしているかを、もっと聞く耳を持って知らなければならないと思います。
 患者さんがお家で過ごすため、私たちは全力で体の痛みを緩和します。
それは、痛み止めのさじ加減ができる医者がいれば絶対大丈夫。日本中で講演するたびに「そういうことをしてくれる先生、訪問看護ステーションがない」というボヤキが聞こえますが、なぜ地域で声を上げないのでしょうか?言わなきや動きません。
 あるおじいちゃんの患者さんは、家族の心がバラバラでした。これではうちで看るのは無理だと思いましたが、本人が「絶対に病院はイヤ」と言うので、家族会議を開くと、不思議な現象が起きました。家族の心がひとつになり、「おじいちゃんを家で看る」ことが決まったんです。
 実は、そういうのは大切な人の命が短くなっている時です。家族の心がひとつになったのを見極めるように亡くなる方も多いんです。患者さん本人は澄んだ目で私を見て「何も心配することはなくなった」と言い、空の上を指さしました。「3年前に亡くなった女房が待っているんだよ」。あと1ヵ月くらいはもちそうでしたが、家族も本人も準備が整ったようでした。
 その夜、2時に携帯電話が鳴って、その患者さんの容態が変わったという連絡が家族から入りました。行ってみると、本当に安らかに亡くなっていました。在宅では、このように不思議なことをたくさん経験します。

息あるうちは
(ここで永さんが再登場) 永 ぼくは亡くなった友達とよく会います。生きているときに仲良くしていたからです。渥美清、いずみたく、中村八大、坂本九……。ふっと見るといるんですよ。ぼくは騒ぎませんよ。ああここにいるんだと。ぼくね、「草葉の陰」ってとっても大事な言葉だと思うんです。
 内藤 井上ひさしさんとは会いますか?
 永 会います。
 内藤 井上さんは東北出身ですね。東日本大震災で避難所となった釜石小学校の校歌は井上さんが生前、作詞したもので、すばらしい内容です。被災者のみなさんも、避難所で毎朝この校歌を歌って心を強くしたそうです。
 今日はみんなで一緒に、その歌詞を唱和しましょう。

いきいき生きる いきいき生きる/ひとりで立って まっすぐ生きる/困ったときは 目をあげて/星を目あてに まっすぐ生きる/息あるうちは いきいき生きる……

 内藤 私か好きなのは「息あるうちはいきいき生きる」という言葉です。
ぜひみなさん、恐れず、自分の頭で考えて、いきいきと生きてほしいと思います。
 永さん、今日は旭川に来られて楽しかったですね。みなさんに会いたいから、この日のためにリハビリして体力を付けてきたんですよ。
 永 ありがとう。 (このあと、永さん、内藤さん、観客で『見あげてごらん夜の星を』を合唱した)