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住み慣れた家で最期を迎えたい

内科の勤務医として活躍していたが、結婚を機にイギリスへ渡る。そこで「在宅ホスピス」に出あい帰国後、クリニックを立ち上げ、24時間体制で末期患者と家族のケアに奔走する


週刊女性2004年7月20日号「人間ドキュメント」より抜粋
「母は今朝早く、亡くなりました。お目にかかれるのを楽しみにしていたんですが……」
071217_001.jpg 夫と娘家族に囲まれ、最期の日々を笑顔で過ごしていた秋山明子(あきやまあきこ)さん(今年4月67歳で死去)宅を訪れた約束の日。待っていたのは予想だにしなかった死の知らせだった。
 娘の今川利恵さん(34)が母親のベッドの傍らに座り、5歳と3歳の孫娘がその隣で大好きだった〝バァバ〃を興味深げに見つめる。臨終に立ち会い、朝再び家族の様子を見に立ち寄ったホスビス医内藤いづみさん(47)に、利恵さんが母親の顔から白い布を取り除きながら微笑んだ。
「先生、見てください。すごくキレイなんですよ」
「わー、キレイだわ。やっぱり苦しまなかったものね」
 内藤さんも感慨深げだ。
 明子さんの顔はキレイにお化粧され、5歳の孫が「バァバにはこれ」と選んで塗ったピンクの口紅が、明るく若やいだ雰囲気を与えていた。
 そのとき、3歳の孫娘がベッドの明子さんに顔を近づけるとキスし、バァバに頬ずりした。
「病院から家に連れて帰って、本当によかった……」
 母親の頬をなでる利恵さんの表情は明るい。母親の望むとおりの最期の日々をともに過ごした充足感が全身ににじむ。明子さんが肺ガンと診断されたのは、住み慣れた大阪を離れ、夫婦で娘夫婦の住む山梨県甲府市に移り住んだ3年前。
すでに手術ができないほどガンは大きく、抗ガン剤治療のため入退院を繰り返していた。副作用などの不安に苦しみながら一時帰宅した明子さんは、娘の利恵さんにいった。
「あー、もう(病院に)帰るのイヤだ」
「じゃあ、どこで死ぬん?病院、それとも家?」
「家」と答える母親に、利恵さんは「じゃあ、家で死のう」と快く応じた。病院の看護師にホスピス医の内藤さんを紹介され、病院の壁を見ては不安と孤独感から「死にたい」と心の中で叫び続けていた明子さんの生活は一変した。
071217_002.jpg 在宅でのモルヒネを中心とした疼痛(とうつう)緩和が功を奏し、死の5日前まで幼稚園に行く孫たちのバスを見送り、死の前日まで家族と食卓を囲むことすらできた。同じ部屋で最期まで妻を見守り続けた夫・和夫さん(69)の言葉が印象的だ。「長く連れ添ったけれど、こんなに2人で話したことはなかったです。本当の夫婦になれた気がしました」
 母親の介護のためにヘルパーの資格まで取った利恵さんは、「明日は迎えられないと思う」と内藤医師に告げられた日、母親の手を握り、「お母さん、生んでくれてありがとな。生んでくれて本当にありがとな……」
 意識が腰胱(もうろう)とした中で、母親は「あー」と答えてくれた。家族全員の胸に〝最期の日々をともに過ごす〃という貴重な体験を遺し、明子さんは笑顔で旅立っていった。
「秋山さんのお孫さんたちは、おばあちゃんの生命がどうやって消えていったかを、お母さんと一緒に体験しました。幼いながら生命に限りがあることを学んだと思います」
 こう語る内藤さんが甲府市内に小さな診療所『ふじ内科クリニック』を開いて9年。午前中は一般内科の診察をし、午後は在宅で最期の日々を過ごす患者や家族のための往診をする。9年間で看取(みと)った患者は100人を数える。
「内藤先生のところに行ったら、もう先はないよ」。同じ医療従事者からのいわれなき中傷。「モルヒネは中毒になる」などモルヒネを使った疼痛緩和への無理解。モルヒネに関してはWHO(世界保健機関)が「患者さんは鎮痛剤を要求する権利がある。医師は投与する義務がある」と勧告しているが、日本ではモルヒネ投与に慎重な医師が多く、患者の痛みはわかっていても放置されているケースが多い。
「私のところにはガンの痛みに耐えた末、我慢できずやってくる患者さんがたくさんいます。現代医学では、末期ガンの激痛の9割は取り除くことができます。痛みを取り除くと家族と一緒に日常生活が送れ、幸せな時間を過ごすことすらできます。絶対にガンの痛みを諦(あきら)めないでほしい」
 昭和56年以来、ガンは死因の第1位を占め、厚生労働省によると平成14年の死亡者数は約30万4000人強。3人に1人がガンで亡くなっていることになる。このうち90%以上の人が病院で最後を迎えているのが、日本の現状だ。(治療できない患者さんはどんどん見捨てられていく。これを本当に医療といえるのだろうか)
 24歳で福島大学医学部を卒業。東京の大学病院の研修医となった内藤さんは、治療法のない患者への病院の対応に疑問を抱くようになっていた。
 当時、「末期ガンだと告知していないから、決して病名の話をしないように」と担当医からきつくいわれていた。(病名を聞かれたら、どうしよう)。病室前に立つたびドキドキし、怯える自分がいた。
そんなある日、普段は2人で行く回診をひとりで行くことになった。病室に一歩足を踏み入れた瞬間、患者を取り巻く孤独な空気に圧倒された。
「おつらいですね……」
思わず本音が出た。年配の女性患者は突然、涙をポロポロとこぼし、「ありがとう」と若い研修医に頭を下げた。
「そのときの体験から、患者さんのつらさを家族や医療者が共有して乗り越えるしかないと思いました。そうやって初めて患者さんはやり残したことをしたり、家族に最期の想いを伝えることもできるのです」
 内科の勤務医だった27歳のころ、ユキさんという名の23歳の患者と出会った。大学院で外国文学を学ぶ聡明なこの女性と話が合い、主治医でないにもかかわらず、毎日のように病室を訪れては映画や文学、恋について語り合った。
 ユキさんは膵臓ガンが肺に転移し、胸には右胸にたまった胸水を抜くための太いチューブが差し込まれ抗ガン剤の効き目も全くない状態。
(治る見込み音ないのに、このまま治療を続けても衰弱していくだけ……)
「ユキさん、あなた、ずっとここにいていいの?」
 悩み抜いた末に内藤さんは、当時の医師としてはいってはならないひと言を口にした。
「先生、私、家に帰りたい。部屋もそのままにじてきたので、整理しておきたいものもあるんです」
 両親の承諾を得て退院したユキさんを毎朝、病院に行く前に往診し続けた。自宅に帰ったユキさんは好きな本を読んだり、家族とビデオで映画を見たり、死の直前まで自分でトイレにも行っていた。
「背中をさすって」と母親を呼んだ後、ユキさんは最愛の母親の腕の中で息を引き取った。
「ユキさんやご家族に、あのとき最高のことができたかというと、正直なところよくわからない。でも、私が少女時代に描いた理想の姿への第一歩だったとは思います」
 中学生のころ、内藤さんが文集に書いた作文がある。
《この世に生を受け、過去から未来へ橋渡しするくさりの一個である私たちは、未来の人類のために何をすべきであろう》
在宅ホスピス医としての核が、すでに芽生えていたのでしょうね。医師というのは、人の生死にかかわるやりがいのある仕事で、人とその心も丸ごと引き受ける仕事というイメージを、少女のころから抱いていました」
 医師を目指すきっかけとなったのは、6歳のころ、母親が乳ガンの手術を受け、放射線治療のストレスから、髪の毛が真っ白になってしまった経験からだった。
(病院は暗いな~)
 幼心にも、病院は親近感を覚えるところではなかった。
しかし、このときのネガティプな印象が、成長とともに理想の医療・医師像を考えさせられるきっかけとなっていく。
 教師だった両親は、教育組合のあり方に疑問を抱き教師を辞め、魚屋さんを始めるほど情熱肌。父親は町の教育委員長にも就任し、夫婦で生活改善運動の先頭に立っていた。
「両親から教えられたのは、安定した地位にとどまらず自分の信ずる道を進むこと。さらに『考え続けること』『諦めないこと』『実践すること』『伝えること』。これらの言葉は私が両親から学び、.引き継いだ大切な宝です」
 そして、いよいよホスピス医へ転身のときがやってきた。
 17年前、学生時代に知り合ったイギリス人男性ピータさん(49)と30歳で結婚した内藤さんは、夫の仕事の都合でイギリスのグラスゴーに移り住んだ。
 イギリスはホスピス発祥の地といわれ、〝現代ホスビスの母〃と呼ばれるシシリー・ソンダースが1967年にセント・クリストファ-ズ・ホスピスを設立。以来イギリス各地にホスピスが誕生し、内藤さんが行ったグラスゴーにも新しいホスピスが生まれ、ボランティアを募っていた。
 医師のボランティアとして参加した内藤さんが目にしたのは、日本では予想もできない光景だった。
「日本だったら点滴をして、ベッドで寝たきりになっている段階の人たちが、キチンと服を着て、ゲームをしたりおしゃべりをして過ごしている。女性はお化粧をしてオシャレを楽しんでいる。彼らはみなガンで助からないことを知っているのに、社会の一員として誇りを持ってシャンと生きているんです。近づいてくる死に呑み込まれない。あー、すごいなと思いました」
 食欲がなく点滴をすすめた女性には、「点滴でベッドに何時間も縛られているのは、私の大事な時間を奪うこと.になるのよ。それよりもティールームで3口のジュースを飲むほうを選ぶわ」と断られた。
患者の意思を尊重し、スタッフ全員でサポートするのがイギリスのホスピスだった。
 患者の中に19歳の青年・マイクくんがいた。片足切断後もガンの進行が止まらず、全身転移してしまった彼は、父親に付き添われ自宅から通院してきている。その物静かな佇(たたず)まいに内藤さんは心を動かされた。
日本で私が担当した17歳の若者の姿がダブって……。その若者は病名も知らされず、豪華な個室にいながら孤独の中で衰弱し亡くなっていきました。でも、マイクくんは恐怖を前にわめくこともなく、笑顔で静かに佇んでいる。こんなに彼を強くしているのはなんなのか、と考えているうちに、最期の日々を、彼を支えて過ごすことを選択した家族の愛だということに、気づいたのです」
 イギリスに渡って6年目の36歳。2人の子供にも恵まれ、育児をしながらホスピスでのボランティアに精を出していたある日、内藤さんは夫のピーターさんにいった。
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「日本に帰ってホスピスケアを伝えたい」
 夫婦は話し合い、内藤さんの志に賛同したピーターさんは仕事を辞め、日本に一緒に行く決意を固めた。内藤さんの母親の家から車で1時間の甲府市に居を構え、最初にしたのは『山梨ホスピス研究会』の立ち上げだった。人のネットワークを作ったうえで95年、38歳のとき在宅ホスピスを行うクリニックを開設した。
「イギリスでは現代ホスピスの生みの母・ソンダース女史にお目にかかる機会があり、〝ホスピスとは何ですか″と質問してみました。すると、彼女は〝ホスピスは建物ではなく、精神です″と実に明快に答えてくれました」
 最近では、イギリスでも患者が住み慣れた家で家族に囲まれて過ごす〝在宅ホスピス〃が増えている。患者にとって病院、ホスピス、在宅と人生最期の場所を選ぶ選択肢が確実に広がっている。一方、日本でも在宅で看取ることに力を入れる医師や看護師のチームが出始めたとはいえ、ガン患者の選択肢はきわめて少ないのが現状だ。
 24時間態勢で末期患者と家族のケアに取り組む内藤さんに、小学生だった長男が不思議そうに聞いた。「なぜママの患者さんは、みんな死んじゃうの? お医者さんって病気を治すんじゃないの?」
「ママのお仕事は、患者さんを泣き顔から笑顔に変えるお仕事をしているのよ」
内藤さんは胸を張って息子に答えた。
 すりつぶしたイチゴを載せた夫手製のトーストをおいしそうに食べていた40代半ばの女性。痛みが取り除かれたことで大好きだった別荘に行き、家族がバーベキューに興じる姿をうれしそうに眺めていた70代の女性。彼女たちに共通していたのは、最期の日々が宝石のようにキラキラと輝いていたことだ。
内藤さんは年中無休。夜中でも患者や家族からの呼び出しがあれば車で飛び出していく。そのためいつも枕のそばに携帯電爵と往診カバンを置いて寝るのが習慣になった。
 3人の子供たちもいまでは慣れっこで、地元の大学で英語を教えたり翻訳の仕事をするピーターさんが育児と家事をサポートする。末期ガン患者が家族に支えられているように、内藤さんも別の意味で家族に支えられている。
 最近は在宅ホスピスの希望者も増えたが、ひとりの患者を丁寧に診察し、家族の心のケアまですると、1度に2~3人が限度。「だから日本一収入の少ない開業医といわれてしまって」と苦笑する。
 日本の在宅末期総合診察料は1日1万4950円と決まっていて、患者はこのうちの1~3割を負担する。この金額には在宅酸素、モルヒネ注射液、点滴、往診料などすべて合計れるため、質の高い診療を提供すればするほど病院は赤字になってしまうのが在宅ホスピスの現状だ。
 「在宅ホスピスがベストなのではなく、大切なのは患者さんが一番安心できる場所を選ぺる選択肢があるということなのです。人間はどのように最期を迎えるぺきか。それを考える時間があるという点では、ある意味、ガンは幸福な病気かもしれません」
 持ち時間があるということは、自分の人生を振り返る時間があるということだ。やり遺したことをやり遂げ、仲違いしてしまった人とも和解できる。ガンを受容することができれば、生きることに真剣に向ぎ合うことができる、と内藤さんはいう。
 「絶望感を抱えたままいつまでも立ち直れないなんて、限りのある人生、もったいないですよ」
 どんな状況でも元気で明るく、前向き。内藤さんが全身から発するオーラから、患者も家族も元気のもとをもらっている。家族は在宅で平均8週間患者と同じ時間を共有しその時間が濃厚であればある.ほど、「先生、本当にありがとう」とやり遂げた充実感一から笑顔で感謝を口にする。
「その人の最期に立ち会えるということは、ある意味幸せだと思います。家族間の悩み、現実の厳しさなども垣間見させてもらう中で、うまく和解し、最終的に幸せに人生を締めくくっていくのを見たとき、本当によかったなと思います。最後の場面で家族同士の生命のやりとりを見せてもらうのが、ホスピス医としての生きがいかもしれません」
071217_004.jpg 内藤さんには夢がある。家族という小さな枠を超え、自然の中でさまざまな人たちと交わることのできる『ひと休みの村』。老人も子供も、健康な人も病む人も、その人なりの能力と役割を持って過ごすことのできる空間作りだ。
 そこでは、病気の人は専門の看護師によるケアが受けられ、心身の苦しみを緩和してもらうことができる。通ってくることも、長期滞在も、最期の日まで過ごすことすらできる人生の『ひと休みの村』。
「考えてみれば、この村は30~40年前まで日本にあった村の姿そのものなんですよね。生きることも死ぬことも身近にあり、みんなが生命を実感していた……。私としては家庭といった小さな単位ではなく、地域社会全体がホスピスであってほしいと思うのです」
 ガン患者は今後ますます増え続け、2015年には年間89万人がガンにかかるとの統計予測もある。ここ1、2年、病院でのガン告知も当たり前になった。もし自分が末期ガンとわかったら、どのような最期を迎えたいのか。元気なときから考えておくことが必要な時代が来たといえる。
 在宅ホスピスで繰り広げられるのは、人生のエンディング、緊張をはらんだドラマだ。内藤さんがいうように、「愛する人と別れ、この世を去りゆくときに、人は得がたい人生の輝きに気づく」
 患者と、それを見守る家族。死という人間の根源的痛みを共有して初めて、〝生命″の重さが次の世代へと受け継がれていく。
週刊女性2004年7月20日号「人間ドキュメント」より抜粋