ホスピス記事

ヘルスケアリーダー(日経ヘルスケア記事より)


「命のリレー」を橋渡し在宅ホスピス医の先駆け
日経ヘルスケア、日経BP社が発行する医療、介護従事者向けの専門誌。その2007年5月号の記事「ヘルスケアリーダ」より抜粋にてご紹介します。(c)文◎久保俊介様 写真◎山下裕之様
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患者の大半は長くても余命2カ月の末期癌。その人生に再び自分らしさという輝きを取り戻してもらおうと、12年前から在宅ホスピスに身を捧げてきた。住み慣れた自宅で残された時間を家族と穏やかに過ごし、最期を迎える。この「命のバトンタッチ」の支え役に徹することで、在宅で看取ることの重みを伝え続ける。
「私が不安になっても、先生は何でも相談に乗って受け止めてくれる。だから明るく笑って生きられる」 「先生は、患者に心の栄養を与えてくれる」

ふじ内科クリニック(山梨県甲府市)院長の内藤いづみの印象を患者やその家族に尋ねると、こうした答えが次々に返ってくる。同院は、主に末期癌患者の診療を手がける。外来と並行して在宅医療も行い、1995年の開業以来、約150人の患者を在宅で看取ってきた「在宅ホスピス医」の先駆けだ。内藤の評判を聞きつけ、県内だけでなく、県外からも相談に訪れたり、通院する患者がいる。
「人が死ぬって何だろう」
「末期癌患者を医療の抑圧から解放し、もう一度自分らしさという輝きを取り戻して残りの人生を歩んでほしい。住み慣れた家で家族と一緒に豊かで穏やかな時間を過ごす。そして、最後に家族が在宅で看取ることで『命のつながり』を実感する。私たちはそのサポートをしているんです」(内藤)。
内藤が行うホスピスケアの基本は、モルヒネなどを使った療病コントロール。患者の癌の痛みを極力和らげ、残された時間を苦しまずに過ごせるように心を砕く。しかし、そんな治療方針を、「治すことを諦めており、医師として敗北している」ととらえる医療関係者もいまだに少なくない。
では、癌が全身に転移しても、手術や放射線治療など、「積極的治療」をひたすら行うことが、すべての患者にとって幸せか。必ずしもそうでないことは、冒頭のように積極的治療を選ばず、ふじ内科クリニックの門を叩いた患者や家族の言葉からわかる。
内藤が医師を志したきっかけは、幼い頃の体験にある。5歳の時、内藤の祖母は自宅で患を引き取った。今まで温かだった手が冷たくなり、体が硬くなる。「人が死ぬって何だろう」と感じた。ほぼ時を同じくして母親が乳癌を患い、死の淵をさまよう。
幸い治療は成功したが、改めて「人が生きる、死ぬって何なのか」と考えさせられた。だから中学生になる頃には、「人間の生命の仕組みを知るために医師になろう」という意識が芽生えていた。
75年に医科大学に進学。しかし、内藤は物足りなさを感じた。講義では「冷静に医学的な見地から診断しなさい」とばかり言われる。「患者の気持ちや人生観に配慮しなくていいのか」。疑問を感じたが、大学で答えは見つからなかった。
研修医として医療現場に出ると、疑問はさらに大きくなった。当時は、本人に癌告知をしないのが主流。その結果、患者は自分の病気が何なのか最後までわからず、不安と孤独の中で死を迎えていた。
「おかしい」。内藤は強く思うようになった。
患者に自分らしさという輝きを取り戻して残りの人生を歩んでほしい
研修を終えて大学病院に入局。そこで、1人の末期癌患者を担当する。名前は山崎ユキさん(仮名、当時24歳)。彼女との出会いが、内藤のその後の人生を変えることになる。
ユキさんは、膵臓癌の肺転移だったが、本人は告知を受けていなかった。同年代ということもあり、彼女と親しくなった内藤は、病室を頻繁に訪れた。
彼女は聡明で、薄々、自分の病気は治らないと気づいているようだったが、不安な表情を見せず、明るく振る舞っていた。そんな姿を見続けた内藤は、ある時思わず、「今何が一番したい」と尋ねた。返ってきたのは、「家に帰りたい」という答えだった。
「彼女の思いを絶対にかなえる」。こう考えた内藤は、教授に掛け合って半ば強引に退院の許可を得る。在宅復帰させると、自ら訪問診療に出向き、治療に当たった。「母がご飯をつくってくれる音が台所から聞こえるだけでもうれしい」。ユキさんは、3力月後、自宅で母親に見守られて鬼籍に入った。
ユキさんは内藤に「私には100人の大学病院の先生はいらない。内藤先生がこうして私を家で診てくれれば」という最後の言葉を残した。この時、内藤は在宅で看取ることの大切さを学んだ。
「自分の進む道は在宅ホスピス」という考えが明確になったのは、英国人の夫と結婚し、86年に夫の仕事の都合で渡英した時のことだ。当時英国では、モルヒネを使いながら、末期癌患者に余生を自分らしく過ごしてもらうケアの考え方が「ホスピス・ムーブメント」として全国的な広がりを見せていた。
「最先端のホスピスケアに肌で触れてみたい」と考えた内藤は、グラスゴーの自宅近くのプリンス・オブ・ウェールズ・ホスピスで非常勤の医師として働き始めた。そこで見たものは、医師や専門看護師などのケアチームが、患者と家族を支え、患者が明るく生活が送れるように気を配る姿だった。
「ホスピスケアを日本で普及させよう」。こう決意した内藤は、夫の協力も得て91年に家族で帰国。
「小さな組織でも、自分の思い通りの医療を実現したい」と考え、95年にふじ内科クリニックを開業。以来、患者のために全身全霊を傾けてきた。
「冷静」と「思いやり」のバランスが肝心
「ホスピスケアでは、患者に『半歩』寄り添うことが大切」と内藤は言う。その真意は、医師として患者の症状を冷静に分析することと、「この患者のためにできることを何とかしてあげたい」という人間としての思いやりを持つこと。この両者のバランスが肝心ということだ。
それでも、診療を通じて信頼関係ができた患者との別れは、胸に重くのしかかる。だから、在宅末期の患者は常に数人までと決めている。
開業して12年たった今、「人が生きる、死ぬって何だろう」という疑問の答えに、内藤は行き着こうとしている。それは、「人は人と出会うために生まれ、死という別れを通じて互いの命のつながりを感じる」というもの。「医療を通じて、その大いなる流れをサポートすることができるから、どんなに忙しくても私は幸せです」と内藤は言い切る。