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大切な人との別れ そのとき、後悔しないために

ハルメク2019年11月号リレー連載「こころのはなし」「内藤いづみさん×玉置妙憂さんスペシャル対談」より

201911ハルメク
身近な人にもいつかは訪れる最期のときに、後悔しないためにどんな心の備えをしておけばいいか。
在宅ホスピスケアを実践する医師・内藤いづみさんと、看護師と僧侶の二つの肩書を持つ玉置妙憂(たまおきみょうゆう)さんが、ハルメク読者に向けて公開対談をしました。その中から、ぜひみなさんにお伝えしたい大切なエッセンスをご紹介します。

内藤いづみさん
私は山梨県で在宅ホスピス医をしています。実は今日も明け方に、一人の旅立ちを見守ってきました。約4年間の在宅ホスピスをがんばった女性で86歳でした。
家族や孫、ホスピスケアに関わった人々みんなに囲まれて旅立った幸せな看取りでした。

玉置妙憂さん
そうだったのですね。内藤先生のように、患者さんだけでなくご家族の心もケアしてくれる医師がいる地域の方々は、本当に恵まれていると思います。
私は、40代でがんになった夫を在宅ケアで看取ったのを機に出家しました。今は看護師として病院勤務をする傍ら、僧侶としてスピリチュアルケア活動をしています。
今回のテーマはすごく大切なことですね。
特に家族を亡くすことは人生の大仕事です。
夫の在宅ケア中も看取った後も、残される者の心にはさまざまな思いがあり、どう向き合うべきか、答えも正解もないのですから。

内藤さん
本当にそうです。ただ、人は体が苦しいと心も苦しくなり、心をラクにすれば体もラクになります。つまり人間の体と心は一体ということ。だから両方を一緒に大切にしていかなくてはいけません。これは患者さんだけでなく、見守る家族にも大切なことです。
もし自分が病気になって、外に出られなくなったときに感じる苦しみの正体は何か。端的に言えば絆です。人は、家族や地域との絆がなくなると苦しくなります。では、絆とは何か。それは大きなものとの関係だと私は思います。
みなさん、ぜひ今夜は夜空を見上げて星を見てください。きっと「自分の存在はなんてちっぽけなんだろう」と思うはずです。同様に、風に吹かれたら「風を起こすものは何だろうか」と、道端で花を見つけたら「この花を作っているものは何だろうか」と考えてみてください。これらの自分以外の大きな存在、それが絆であり、私たちはそれらに包まれて生きています。

玉置さん
大切な人を安らかに送るために、自分にそのときが来たときのために、まずは自分以外の大きな存在に身をゆだねることを知っておいてほしいと思います。
私自身、在宅ケアを経験して思うのは、今の日本の在宅ケアに対するサポートは優秀ということです。介護、医療、生活支援、予防ケアまでちゃんとやってくれます。ただ一つだけ決定的に不足しているのが、この支援を利用して生活する患者さんやその家族の心をケアするサポートがないことです。心のケアは本当に重要です。24時間介護が必要になってくると、夜中に起こされることも増えます。
私はそのとき「もう、いい加減にして」と思ったことがありました。頭の半分では「何でもしてあげよう」と思っているのに、もう半分は「もう寝かせて」と思ってしまう。そんな自分をまた責めるという悪循環が起こります。
夫はよく私を呼びつけては「寝てもいい?」と聞いてきました。それが夜も続くので迷惑でした。しまいには返事も冷たくなってしまって、「寝ればいいじゃない。いちいち私に断らなくていいから」って。

内藤さん
それはたぶん、永遠の眠りについてしまうかもしれないと思うと怖かったのかもしれないですね。「これが今生の別れになるかもしれない」と思い、確認したかったのでしょう。けれどそれに一生懸命応え続けていたら心身ともに限界が来て「見ているこっちが先に死んじゃうわよ」となる。誰もが抱く思いであり、旅立ちのために避けて通れない時間なのです。でも、家族自身では気づくことができません。だからこそ、「今がそのときだよ」と言ってくれる人がそばにいたら、とても心が軽くなれると思います。

玉置さん
人の看取りにはいろいろな感情があって、身内の中でも立場によって考えも変わりますから、いさかいが起こったり、それまではなかった思いが噴出したり。

内藤さん
けれど、死にゆく人が一番求めるのは和解なのですね。だからその命が絶える
ときは何か大きな力が働いて、ものすごい力で平和なものに包まれていくんです。
ある限界集落に住む80代の男性Eさんの在宅ケアをしたときのことです。末期がんでしたが、最期まで日常を続けることが彼の願いでした。「俺はぎりぎりまで畑に行きたい」。
その希望に応え、これまでの仕事が続けられるように病みを取るケアをしました。あるとき、畑に連れていってもらうと、道中には共同墓地があって、そこには自分の家のお墓もあり、毎日掃除をし、手を合わせることが日課だと教えてくれました。奥さんが、日々やせていく夫を見て「いつこのお墓に入るのだろう」と考える一方で、ご本人は何も言わない。だから私がご本人に「ここにEさんも行くんですね」と言ったんです。私ってひどい医者でしょう?でもEさんは笑顔で私にこう言いました。「うん、先生。ここで一番立派なお墓だろう?」って。その横には自分たちが青年だった頃に植えた桜の木があって、毎年4月になると見事に咲くことも教えてくれました。「今度のお花見は一緒にしよう」と誘ってくれましたが、そのとき、私たち全員の顔が曇りました。「その頃あなたはこのお墓の中よね」と思ったから。でもそこには笑いもあって、こうした会話や場面もどぎつくなく、暮らしの中だと悲しみを超える豊かな思い出になります。

玉置さん
自分の死について、実は一番わかっているのは本人。本当は死についてもっとじっくり話したいと思っているのです。なぜならそれが今一番興味のあることだから。
しかし周りがそれを言わせないようにし、それがどんどん一人にさせていると感じます。

内藤さん
もし心通わせる人が孤独を感じている様子だったら、「元気を出して」というのではなく、「あなたは今どんな気持ちなの?」「何が一番苦しい?」と聞いてみるといいかもしれません。閉ざしかけていた心の扉も、きっかけがあれば必ず開きます。こうした声かけは相手も助けるけれど、自分もまた別の人にきっと助けてもらえると思います。

玉置さん
もう一つ、大切な人を亡くして悲しみに暮れている人には悲しみ切らせてあげてほしいです。「もっと泣いて、もっと悲しんでいいのよ」と。人は悲しみの底に足がつくことができてようやく底を蹴り上げること悲しみ切ること。悲しみの底に足がついたら蹴り上げてようやく浮上できるのです。

内藤さん
昨年の12月、私の母が96歳ちょっとで亡くなりました。最期は施設で迎えまし
た。いよいよ最期を迎えようとしていることがわかり、きょうだいで相談した末、点滴をやめ、代わりに「愛」を注ぎ、そばにいて声をかけ、体を撫でて見守りました。そして母は静かに息を引き取りました。見事な一生を看取り、ある意味の達成感がありました。振り返ると春の頃の私は心にぽっかり穴が開いたみたいでしたが、これも味わってまた一歩先へと進むんだなと思います。
そういえば葬儀を終えた夜、鏡に映った私を見て夫が声をあげて驚いたんです。「鏡の中におかあさんがいる」って。でも映っていたのは私。つまりよく似てくるということ(笑)。いただいたものは本当にそこにあるんだな、と思いました。そして、命は連綿と続いていくことを改めて実感しています。