今日のつぶやき

2009年一番のプレゼント

「おばさんは、僕たちにとって長いことずっと身内の中心人物で大きな母のような存在でした。何かあると皆であの家に大勢で集まりました」 「おばさんは太陽みたいな存在だったんですね」


「そうです」
そう言ってその男性の目は涙で溢れた。
今年の秋に自宅で最期を迎えた90歳近い女性の傍らには、いつも誰か身内が寄り添い一生懸命看護していた。
その女性は高齢になってもずっとひとり暮らしを続けていた。病院嫌いで調子が悪くても我慢していて、病気がやっと見つかった時には既に末期がんだった。私のところに来て下さってから何とか痛みを緩和し、口から少しずつ食べる楽しみも続けることができた。口数が少なくなっても一族の中心としてその存在は輝いていた。
往診で伺うと、ひとり暮らしの前庭は手入れが行き届いていた。元気な頃のひとり暮らしのきびきびとして、凛とした姿が見えたような気持ちがした。
たくさんおしゃべりができる時期は少なかったが、新しい治療が始まる時の説明には「分かりました。ありがとう」と小さな声で私にはっきりと答えて下さった。平和な日々が続いた後、惜しまれながら身内に囲まれて静かに自宅で息を引き取った。
その男性が私に言った。
「病院が大嫌いで、それで手遅れになったのかもしれません。でも、先生のところは特別でした。動けるうちは先生の外来にしばらく通いましたね。あの病院嫌いのおばが、『内藤先生のところへ次に行くのはいつ?あそこへ行くと安心する』と言って、楽しみにしていたんです」
私たちのホスピスケアを本人が選んで下さったのだと改めて分かり、私の心に灯りがともり温かくなった。
嬉しい、幸せなクリスマスプレゼントを頂いた。
大切な人を失うのは悲しい。いつまでもいてほしいと皆が願う。しかし、最期の日々を、ゆく人の後悔にのみ向かい合ったとは、誰も思えない。後悔など蹴飛ばして、いのちは必死にその日を生き抜こうとしている。それに気づき、周りの者たちが必死にいのちに向かい合ううちに、死も生(いのち)の一部であり、お互いの成長に大切な時だったと思えるようになる。それこそがいのちの希望ではないだろうか?
だから、後悔に焦点が当たった今回の記事にやや違和感を持った知人が多かったかもしれない。
内藤いづみ