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スローとファースト

2016年2月19日読売新聞「伏流水」より

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旧歴正月に伊勢神宮を参拝することができた。伊勢の方々とご縁ができ、何度も伊勢に招いて頂いている。伊勢の森に抱かれた2000年以上の歴史の伊勢神宮は、早朝から夕方まで清々しい空気を私たちに与えて下さった。
私はその地で、スロー(ゆっくり)ライフとファースト(早い)ライフの話をした。私たちの暮らしを振り返ってみよう。たとえば、調理。私が幼い頃、土間の台所にはへっつい(かまど)があり、薪をくべて煮炊きをしていた。つい数十年前のことである。今はオール電化、ガス、電子レンジ。移動もスローの徒歩から自転車、自動車、電車、新幹線、一番のファーストはこれから現実化するリニアであろう。

胎児を胎内で10ヶ月をかけずにあっという間に成長させることはできない。胎児は時間をかけてゆっくりと外界に出る準備をする。子育てもスローの覚悟が必要だと思う。いのちは急いでは寄り添えない。
マニュアルや計算づくの薬物投与で看取りへの道のりを短縮できるだろうか?私たちは科学技術の進歩の成果を人間の進化と勘違いしがちだ。

山の中に住む86歳のEさんは当初、がんで余命2~3ヶ月と思われたが、家族の支えと私たちの見守りに納得して、7ヶ月を安定して過ごされた。体力が少しずつ落ちるのを自分で見極めて、知人たちに別れのあいさつもした。少しずつ口から食べた。痛みは軽い鎮痛薬で収まった。最期の日が近くなって私が往診すると、嬉しそうに笑った。孫や娘たちが集まってEさんに寄り添った。
Eさんは妻に
「先生たちに美味しいものを出してくれ」と家長らしく命令した。奥さんは手作りの料理を大きなコタツの上に色々と並べて下さった。何だか楽しくてみんなでワイワイと頂いた。どれも美味しかった。Eさんはそれをニコニコして見守った。私はその時、昔のふるさとのお祭りを思い出した。看取りもこうして豊かな祝祭になる。

本人の死にゆく力をみんなで支えて、薬で強引に眠らせることもなく、安らかにふたつ大きな息をついてEさんは息を引き取った。支え切ったご家族の顔は清々しさで満ちていた。