米沢慧さんとの往復書簡

往復書簡(米沢慧様)Vol.5 往

米沢さん、どうぞ今年もよろしくお願いします。
昨年は、私が再会の嬉しさのあまり(?)バランスも考えず、冗長に書き送ってしまい申し訳ありませんでした。
おまけに、お約束した『キュブラー・ロス』という大きなキーワードにはなかなか辿りつけませんでした。今年はまず、私から始めさせて下さい。米沢さんも、返信はブレーキなしでどうぞ!(笑)


私は、年末は27日まで外来を開けていましたが、何人かの患者さんの在宅ケアの責任を引き受けていますので、休みとはいえ実質的には心身の自由はありませんでした。
年末年始はどこの病院も休みに入ってしまうという不安も手伝ってか、体調を崩す方も続出し、私の携帯が鳴り止まない日もありました。
その中で私が感じたのは、国民ひとりひとりに本当の意味で自分たちの「いのち」をどう生き、どう支えるか、という問いかけや、確認がなされてこなかった、と改めて思ったことでした。
これまでは、暗黙の了解と自助努力と自由競争で上手く運んで来れたのでしょうか?日本経済の進展に似ていますね。
認知症の方をなるべく日常的な暮らしの雰囲気の中でケアするグループホームが日本中に多数できています。
それで助かっている人も多いと思います。最近では、担当者として専門的な介護の知識と技術を身につけた人たちが配置されるようになっています。
グループホームの運営と利用者さん(介護保険ではこう呼びます)のケアに私も関わることもあります。高齢の方は認知症だけでなく、身体もいくつか病気を持っていることも多く、医療の介入も必要なのです。
老衰(いのちへの終わり)の道のりで、どういのちを支えていくか、悩みが私たちに生じています。それは認知症であるがゆえに、本人にいのちをどう生き切るか確認しづらい、ということと、施設に預けてしまうと家族の存在が段々と遠のき、いのちをどう囲むか家族と共に考えられない、ということです。米沢さん、いのちの変化をずっと一緒に看ていないと、主人公を囲む協力体制もどこかで崩れてしまう危険が高まります。
たとえば、いのちの終わりに食べられなくなった時、脱水予防に持続点滴をするのか、胃ろうにするのかなど。
質の高い専門的な介護者がいたとしても、医療者の私だけでは決められないのです。日常的には関わらないけれど、結果だけみて不満足だと思う家族もでます。担当者たちとすると、施設での看取りの方が本人にとっては安らかだと思っても、家族の了解がはっきりしないので、病院に送り込むことが多いように私はみています。
いのちの変化を一緒に見守っている家族の存在が必要なのです。ひとり暮らしやふたり暮らしの認知症の方も地方では増えています。良心的な担当者の誠意に囲まれていることを祈ります。
病院の入院対応も地域毎に様々でしょうが、国の方針から、とにかく治療対象の選別が厳しくなっています。入院の半ば強制的と感じるほどの短縮も目立ちます。緊急時の入院のお願いなど、いつもハラハラします。
入院できると「ラッキー!」と声を上げてしまう時もあります。「24時間いつでもどうぞ、ウェルカム!」そういう病院の対応は滅多にありません。
困った時には必ず引き受けてくれる基幹病院とホームドクターとのネットワーク、それらは掛け声としてはありますが、日本のどこでも、というレベルでは機能していないように思います。
日本中にいのちのブラックホールが増えそうで心配になります。ですから、これまで家族とがん患者本人と私たちが信頼関係を築きながら、一歩ずつ山登りのようにいのちの看取りをなしてきたことが、時には本当に贅沢で、夢のようなことに思えてしまう昨今のいのちの風景です。
キュブラー・ロスは人生の終わりを度重なる脳梗塞で身体の自由を失っていき、他人からのケアに委ねざるを得なくなりましたね。キュブラー・ロス自身が語っているように、彼女は他人に愛を与え続けてきたけれど、「人生の最終章は愛を与えられる立場になることを学ぶレッスンだ」と。
しかも、怒りのステージもかなり味わいました。キュブラー・ロスは、受容の5段階説を唱えて世界中で有名になりました。日本では、『死ぬ瞬間』という本がベストセラーになりました。色々な心理プロセスを経る危機状態の人間に、無条件の愛と慈しみを持って関わってほしい、ということが一番重要なこととして根底にあると私は思っています。
いつだったか米沢さんにお借りして、晩年の病床のキュブラー・ロスの日本人の女性ジャーナリストがインタビューしたビデオを見た時に、私はそのインタビュアーにとても不快感を覚えました。
キュブラー・ロスは、不機嫌でイライラした人生の最終章を生きる、可愛気のない老女として映っていました。
インタビュアーは、「世界中の人に、死の受容を唱えた大先生。その本人が、なぜ堂々と尊敬できる立派な態度で死を受容していないのか。」ということを幾分がっかりして、軽蔑感までも匂わせていたように感じました。
立派なアメリカンインディアンの酋長のように、「今日は死ぬのにはもってこいの日だ」とか言わせたかったのでしょうか?ロス自身は、ひとりの人間に返って、正直に必死に自分のライフレッスンを果たしているというのに―。
ロスと比較できないほど小さな存在の私ですが、私に対しても時に人から「ターミナルケアを専門としている、全てを受け入れた立派な人」という目で見られることがあります。そんなふりはとてもできません。死ぬまでライフレッスンに取り組み続ける平凡な人間のひとりですから。
彼女は最後の本、
『永遠の別れ(悲しみを癒す知恵の書)』デーヴィッド・ケプラーとの共著(日本教文社刊)
でも言っています。
「あんなにも自分自身は医療が患者にとって温かいものになるように頑張ってきたのに、いざ自分が患者になり、特に在宅で過ごしているとアメリカという国の医療と福祉のレベルの低さと、病人の扱い方にがっかりし、怒りが湧いてくる。自分のやってきたことは一体何だったのだろうか―」と。
確かにアメリカの医療の状況は厳しいようです。
 マイケルムーアという監督はここ数年、アメリカ社会の格差や問題点を辛辣に描き出しています。
特に「シッコ」という映画では、アメリカの福祉の姿を生々しくみせてくれました。私も医者をして、医者の仕事を支える志を持てる国で働き続けたいと思いました。日本の未来は少し心配です。
米沢さんも高齢の親御さんに関わり、老いのいのちの過ごし方について、かなり考え、学ばれたと思います。私も国の方針で介護保険が導入され、民間活力で(下品な言い方を敢えてすると、収益を上げる事業として提示されたことで)民間が参入し、日本中に広がる様子を見てきました。
民間の力を借りなければ、これほど多様に全国に、短期間にこの制度は広がらなかったことでしょう。日本では、心身の老いを背負った人を制度として放置することはなかった。
しかし、国のグランドデザインとして、地域のホームドクターが必ず存在して、病人や老人の在宅ケアを引き受け、いのちを支える大きな医療のネットワークを作ることがきっちりとできなかったのでは?と思います。
それには色々理由があるでしょうが、要介護老人に関しては、施設などに入り家族から離れてしまう、というケースも増えたように思えます。老いの最期の姿を見ることが身近に減っています。
グランドデザインの欠如-。
これを思い知ったのは3か月前にNさん(96歳)と関わった時でした。
Nさんは、近くの老人病院の外来に長いこと定期的に通院していました。老衰が急に進行し始めて、体力的に通院できなくなりました。娘さんはふたり共ナースだったので、家での看取りを希望しましたが、その病院では往診はしていませんでした。
「薬は処方しますが、何か起きたら救急車で外来へ連れて来るように。死亡確認も外来でします。」
そう説明を受け、困惑したそうです。
近くには往診してくれる医師が見つかりませんでした。娘さんのひとりは、ドイツで長いことナースとして働いていたので、日本とドイツの在宅ケアを実践する上での制度の違いにもびっくりしたそうです。
イギリスでもそうですが、ドイツでも国の制度としてG.P.(ジェネラル フィジシャン)と呼ばれるホームドクターが、国民ひとりひとりに必ずついていて、病院との連携はきっちりとできているからです。
必要なら往診もしてもらえます。
ドイツでは、介護する家族に給付金が出るので、経済的に安心して在宅ケアができるそうです。
日本では、往診してくれる開業医を自分で探すことから始まりますし、地域によっては往診医がかなり少ない所もあります。
在宅で過ごすNさんは、少し不安定な病状でした。家で看取るためには、いのちの最期まで生き切るプロセスを支えてくれる医療の専門家が必要です。
私とご縁があり、Nさんに関わることになりました。医療的な処置やアドバイスを行ったところ、病状が落ち着いて1ヶ月ほどを平和に過ごして、自宅で大往生なさいました。
ドイツから里帰りしていた娘さんは、家で看取れたことにほっとしながらも、「運が良かった・・・と言ってしまうような脆弱な日本のシステムでは、皆さん困りませんか?もっとがっちりとした基盤が必要なのでは?
私たちは確かに幸運にも助かったのですが―。」と感想を漏らしました。
こんな風に、在宅ホスピスケア中心の仕事だった私も、介護保険や認知症の方々とのケアにも少しずつ関わってきました。
どこにも学びの道があるのですね。日本に初めてユニットケアという老人施設でのケアの仕方を伝えた方々から“バリデーション”という認知症の人とのコミュニケーション方法を昨年は教えてもらいました。これは言わばスーパーコミュニケーション法です。
米沢さんにもテキストをお渡ししましたよね。
『バリデーション / ナオミ・フェイル著』(筒井書房刊)
どんな認知状況の人の行動にも、ケアする人に深い観察と共感があれば、そこに意味があることが分かり、相手の価値を認め尊重することができる、という実践方法です。
アメリカのナオミ・フェイルという女性が創始者です。何度か専門講師の人の話を聞くうちに、私はキュブラー・ロスのことを思い出しました。
共通点と言ってもいいです。ロスは三つ子のひとりでした。自分はいらない存在なのかと暗く思うこともありましたね。彼女はお父さんのことはあまり好きではなかったようです。
特に、大切なペットのブラッキーといううさぎを、お父さんの命令で自分が肉屋に持って行き、と殺してもらった時の思い出は、一生怒りと悲しみと共に思い出していました。
おまけにその時に「もう少し待てば、このうさぎは子供を産んだのに・・・」と肉屋で言われた言葉は、60年経っても怒りとともに脳裏に浮かぶ、と自伝にありました。
彼女の人生にとって大きなトラウマでした。幼い子供だったロスは、その時の気持ちを頑張って抑圧するしかなかった。我慢して心の中にしまい込み、そして60年間もずっと忘れられなかったのです。大人になってから、お父さんと似た雰囲気の患者と会っただけで、自分では気付かなかった大きな怒りが生じるほどでした。
バリテーションでは、大昔ずっと抑圧してきた感情が、認知症になって理性としての重りがとれてしまうと表出することがある、と言っています。
自分を騙し、我慢し、耐えて心の底に閉まってきた感情。たとえば、3歳の時に里子に出された女の子は、悲しい時にはひとりで「お母さん、お母さん」とつぶやいて乗り越えてきた。80歳で認知症になった時、一日中「お母さん、お母さん」と呟きを繰り返す、ということでした。
私の87歳になる母親も、80年前のことを今も鮮やかに思い出し語ってくれます。(私の母は今のところ認知症ではありません。)
それは4~5歳の時、紡績工場で働く母と昼休みには合流し、一緒にお弁当を食べた思い出です。どんなに嬉しかったか、母と一緒でどんなに安心だったか。ストーブの上のやかんの湯気の音まで思い出すと言います。貧しいお弁当だったけれど、どんなに美味しかったか、などと私たちに語ってくれるのです。
親との関わりはこんなにも大切ですし、時の長さはあまり関係ないようです。母の場合は幸せな思い出ですが、心にトラウマを残すような辛い思い出を封印すると、それがいつか大きな力で外へ出てくるかもしれない・・・ということをバリデーションは教えてくれました。心の不思議さですね。
ロスは5段階説の中で、がん告知などでショックを受けたことにより湧き起る感情を閉じ込めず、充分に外に出して怒り尽し、動揺し、それから絶望に至った時、絶望し尽しなさい、と言っています。怒りを外に出すことは、日本人は得意でないかもしれませんね。そして絶望の後にこそ、やっと微かな、しかも確かな希望が生まれてくるのだ、と。その苦しさを味わい尽くすのを、傍で助けることができるのは実は、家族の力なのだということを私は見てきました。
今回はバリデーションの側面から、キュブラー・ロスを雲の上の人ではなく、ひとりの人間として、少し身近に感じることができた気がしています。
キュブラー・ロスの教えてくれたことは、近づきがたい神秘の話ではなく、様々な響きを持って、日常のささやかな生き方の中に隠れている、人と人を温かく結びつける生きたヒントだと思います。ロスを知って20年以上経ち、私も少しずつロスを自分なりに消化しつつあるのでしょうか。
さて2009年は、今までの文化や経済の価値感を転換しなければならないと、人類がようやく気付いた年として記憶されるのでしょうか?
それはまたいつか意見交換をさせて下さい。
またしても、あちこちに飛びながら長くなりました。
では、お風邪など引きませんようにご自愛下さい。