米沢慧さんとの往復書簡

往復書簡(米沢慧様)Vol.1 復

エリザベス・キュブラー・ロスからのメッセージ」
~米沢 慧さんと往復書簡 1回目(返事)~
内藤いづみ


久し振りのお便りありがとうございました。
10年前の山梨日日新聞上でのファックス書簡の時には、米沢さんからお便りが届くと「よし!」と、かなり戦闘意識が湧いて向かい合った覚えがあります。
今の私は旧友に会ったようななつかしさと嬉しさでいっぱいです。
当時、私のホスピスケアの仕事の理解者は少なかったし、連携してくれる病院もなくてもう必死で(時には背水の陣で)在宅での看取りをしていました。
臨床現場の苦しさを味わったことのない、理屈だけの(失礼!)批評家にあれこれ言われたくない、という気持ちがありました。
しかし、医者にも色々な人がいるように、批評家にも色々な人がいるということが段々と分かりました。米沢さんの学びは深いものでした。それだけ、あの往復書簡は真剣勝負で思い出深いものでしたね。米沢さんの運命を変えてしまった、知の巨人「岡村昭彦」については次回、改めて詳しく教えて下さい。
今また何回目かのアキヒコブームではないですか?若者たちも、その仕事の中身に興味があるだろうし、おそらくその先見性に驚くことでしょう。
10年の間、米沢さんの周辺ではどんな大切なプライベートなことが起きましたか?
身内の看取りですか?
私は、最大の仕事の3人の子供の子育てと共に、淡々と(細々と)在宅ホスピスケアを続けてきました。
何度かスタッフの看護師が燃え尽きて去りましたし、小さいとはいえ、診療所を経営する厳しさも学びました。
そして、その時点でふたつの決定をしました。スポンサーが見つからない限り、施設ホスピスを自分が責任者で立ち上げない。
給料をもらって働いている大病院の他の医者が時には羨ましくみえても、固定的な組織の一員にならない。
シンプルに言うと、ひたすら自分の目の前のいのちに向かい合い、マイペースで歩む、ということです。
介護保険が導入され、所謂介護ビジネスの世界に手を染めた友人もいました。
もし、自分の理想とする施設ホスピスを始めるとすると、その財源を確保するために、事業家としての多角的経営手腕が必要でした。
その才能と自信は私にはありませんでした。
日本では、たくさんの人の献身と愛情と共に、個人的なホスピスケアを提供するのに充分な医療費も助成金も乏しい現状が続いていたのです。
それでも、自分の理想を実現すべく、有床診療所を立ち上げた人たちがいます。『生きるための緩和医療』(医学書院)を読むと、その奮闘ぶりに頭が下がります。
米沢さんの言うように、私は数少ない患者さんたちと出会いの縁を結び、その方の人生(物語)に参加させて頂き、学ぶ道を選んだのです。
大きな組織の一員にはなりませんでしたが、学びを請う尊敬できる師は何人か目前にいました。
がんの痛み緩和の第一人者 武田文和先生(元・埼玉県立がんセンター総長)、現代ホスピスの母 シシリー・ソンダース女医(セント・クリストファーホスピス)、そして『死ぬ瞬間 Death and Dying』という本で世界中に名前を馳せた エリザベス・キュブラー・ロス博士。
この3人の中で、キュブラー・ロスだけには直接お会いする機会はありませんでした。
彼女のたくさんの業績を学んでみると、ふたりに比べてキュブラー・ロスは孤軍奮闘の印象がありました。多くの信奉者やファンはいたと思いますが、同業者の中での賛同や支援は長いことなかなか得られなかったのは何故なのか、私も考えたことがあります。
それは、キュブラー・ロスの感性の鋭いいのちの視点が、それまでの20世紀の医学の枠組みや常識に捉われていなかった、ということ。
時には10歳の死にゆく子供にも分かる言葉で語ることのできる彼女はひたすら患者の心に寄り添い、死の淵を共に歩み、痛みに共感し、スピリチュアルペインにまで手を差し伸べる姿勢。
「死は敗北ではない」と提言することは、肉体的ないのちの延命に成功し、医療で生と死をもコントロールできるのではないか、と傲慢に思いがちな現代医療への挑戦と同業者たちに反感をかわれたのだと思います。
彼女は患者の人生(物語)の傍に援助者としていつも静かに佇んでいたのですね。
実は先日、私も似た体験をしました。中学の同窓会で小さなスピーチをしました。
医者になった人たちも参加して聞いてくれました。終わった後、大きな病院で責任ある地位になった医者の同級生が近づいて来て、こう感想を言いました。
「内藤さん、自分の正義を押しつけていないか?君の話は痛々しい。痛みだよ。」と。
「痛み?どんな痛み?私は痛みの専門家だからどんな痛みか詳しく教えてちょうだい。ひょっとして、私を鏡にしてあなたに返っていった自分の痛みじゃないの?」
そう言おうとしていると、その人はさっさと行ってしまいました。
手紙を書こうと思ったけれどやめました。
この書簡の存在を教えてみます。
彼の痛みが増すかしら?
私もきっとこうして同業者の反感を買ってきたのかもしれません(笑)
とにかくGo! マイペースです。
『死ぬ瞬間をめぐる質疑応答』(中公文庫)の本には、世界中で講演した後の参加者からの質問に丁寧に答えるキュブラー・ロスの肉声が溢れています。患者の物語を語るキュブラー・ロスは、無条件に優しい人です。
質問の多くはナースたちからでした。「死ぬ過程(Dying)」への援助はこれでいいのか、と悩む世界中の現場のナースたちの声がキュブラー・ロスに届き、その後の生死学を発展させ、死にゆく人へのケアの質を高めてきたのだと思います。その一部をここで紹介しますね。40年前の医療現場の声です。


Q 多くの医師にとって、死に瀕している患者に対処することが、どうしてそんなに難しいのでしょうか?
A 最も大きな問題のひとつは、医師は医学部での4年間で、病気を治療し、治し、延命するように訓練されることです。
彼らが学んだ中で、「死とその過程」に関係した唯一のことは、死体を解剖させてもらいたい時の頼み方です。
だから、「自分が治療している患者が亡くなる」ことが失敗と見なされるのもうなずけます。医師たちは、快復の見込みのない患者に対してどうすればいい医師になれるか、といった訓練をまったく受けていないのですから。


Q 私は正看護師です。ある時、瀕死の男性の傍に座って手を握っていてあげました。
ただ、その患者さんに、私が気にかけていて傍についていることを知らせたかっただけなのに、上司の看護師から「そんなことをやってないで、早く仕事に戻りなさい。」と言われてしまいました。助けて下さい!
A 助けが必要なのはあなたではなく、上司の看護師ですよ。


Q 患者にはまずどのように話かけたらいいのでしょう?
看護師はどのようにして、患者が死について話すように仕向けたらいいのですか?
病室に入っていって、「さあ、死について話しましょう。」というわけにはいかないでしょう。
それに、医師の多くが、患者に知らせたくない(たいていは家族の希望で)と思っているという問題もあります。
A その通りです。
死が迫っていることを患者に告知すべきではありません。
死が近いことや、病状が末期であることを、患者に話してはいけません。
治療のためにならないし、患者の助けにもならないからです。
「死について話す」意味は、ある患者がほとんど医療の及ばない状態であることを、あなた自身が受け入れられるかどうかと関わりがあります。
患者がこの現実に直面し、あなたに質問した時は、患者の傍に座ってそのことについて話してあげるのが、あなたの仕事です。
もし、あなたが気まずくて、事実を否定し、話題を変えるようでは、患者の力になることはできません。ふつう私たちはまず、患者を見舞い、傍に座り、話をしたい気分かどうか尋ねます。もし、患者が話したいと言えば、こちらから「病気が重いと、どんな気分ですか。」と聞いてみるです。患者はすぐに食餌制限のこと、どんどん増す痛みのこと、スタッフに避けられていること、その他の困っていることを口にし始めます。5分もすると、孤独で、惨めで、寂しい末期患者の心境を告白するでしょう。時には、患者の病室を訪ね、どれくらい病気が重いのかと聞くこともあります。ある患者さんは私の目をじっと覗き込み、驚いて尋ねました。
「本当に知りたいのですか?」。
私が知りたいと言うと、彼は言いました。
「体中がガンに冒されているのです。」2,3分もしないうちに、私たちは、ガンの末期患者というのはどんな感じがするものなのかについて話していました。
他の方法もあります。ただ座ってこう言うのです。
「何か話したくありませんか?」。
すると、患者は自分の気にかかっていることを話すでしょう。
もし、あなたが気まずそうな顔を見せなければ、患者は自分の終末期介護へと話を進めるでしょう。
話のきっかけをつくるには、単に「辛くありませんか?」と話し掛けてもいいでしょう。


先日、福知山線事故の後の被害者やご遺族も参加する悲嘆のセミナーで話をさせて頂きました。
予期しない事故などによる別れの後の悲嘆のケアは大変難しいものです。ショックと否認が大きすぎて、悲嘆を味わい尽くしなさい、とは簡単に言えません。
私たちが関わる在宅ホスピスケアでも必ず患者さんと永遠の別れが待っています。
しかし、ホスピスケアの家族の悲嘆はある程度予期できるものです。
少しずつ準備できる、というべきか。そのために、私たちはお手伝いしているのです。
生き抜くことに力一杯寄り添えた時、残された者は悲嘆のプロセスへ入ることができるのです。
先日59歳のご主人がいよいよターミナル期になった時、奥さんは永遠の別れが辛く、諦める心境になれませんでした。
愛する人との別れですから当然です。
その時、何が起きたかというと、医学的常識を越えてその方は10日程延命したのです。
血圧が50台になっても口をきき、支えてもらってトイレまで歩きました。
それは奇跡のような10日間でした。
奥さんたちの愛情の力でしょうし、ご本人の生きる力の賜物でしょう。
スピリチュアルペイン(魂の痛み)、ロスはさなぎから蝶が飛び立つというイメージで説明していますね。
-魂を閉じ込めた肉体から抜け出す時の痛み-
それは、私たちの体験では底なしの沼に引き込まれるような脱力感。身の置き所のないだるさ、イラつきなどと表現しています。
薬の力ではどうにもならない痛み、自分で味わなければならない痛み。
陣痛とある種似ているかもしれない、いのちの痛み。
その時こそ、愛する人たちの力が必要です。お産の時、妊婦の腰を撫で、励ますのと全く同じです。抱きしめ、撫で、擦り、
「大丈夫、心配しないで。皆いるよ。ありがとう。」
と声をかけ続けること。
そしてやがて家族が
「頑張ったね。もうこれ以上引き止められない。旅立つ時がきているんだね。」
と思えるようになったのは10日目でした。
そしてまさにその時、59歳の患者さんは静かに旅立ったのでした。ホスピスケアは死を早めることも、伸ばすこともしない。それは確かです。
忍耐力を持って、いのちに寄り添い、その時をじっと待つ、というべきか。どんなに一生懸命看取りをしても、後悔は必ず生じます。きっとあの患者さんの奥さんも、今頃悲嘆の何度目かの5段階を回っているのではないか、と心配しています。しかしこの5段階は、失った人の思い出とともに新たな自分の人生に向かい合うその日まで、自分の力で辿るしかないのです。彼女をそろそろお茶にお誘いしようと思っています。
ではまた。
P.S そうでした。次回のディスカッションのひとつに鎮静(セデーション)を挙げたいと思っています。施設ホスピスでは、マニュアル的に末期の時のスピリチュアルペインの対応に、薬物で強制的に眠らせる方法を取っている傾向があるらしいです。(安楽死とは別です。)
どう思いますか?