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心の痛み きずなが癒やす

最期の2か月を過ごした寝室の窓からは、甲府盆地のかなたに南アルブスの山並みが広がる。甲府市の郊外にある、山本真樹さん(66)の自宅で、妻の洋子さんが66年間の人生に別れを告げたのは先月12日午前1時24分のことだった。


 「窓から西日が差し込むでしょ。手を組んで、キツネの影絵を作ったりしましてね」。昨秋から、山本さん宅をほぼ月に1回のペースで訪れている、高野山大学スピリチュアルケア学科准教授の井上ウィマラさん(48)は振り返る。スピリチュアルケアとは、死の恐怖、家族との別離などの精神的な痛みに対するケアのことだ。
080306_08.jpg 洋子さんに末期の肺がんが見つかったのは昨年7月。甲府市内の病院で、放射線治療を受けた。「治療が一段落したら在宅で」と夫婦ともに希望していたため、同市内で在宅医療に取り組む「ふじ内科クリニック」を訪れ、内藤いづみ院長の診察も受けた。
 ホスピスの本場イギリスで緩和医療を学んだ内藤さんが掲げるのが「魂の痛みの緩和」。ともに60歳代半ばと若い上、知的好奇心が旺盛で個性をぶつけあう山本さん夫妻を一目見て「2人に残された人生を実り豊かにするには、スピリチュアルケアの専門家が必要」と、井上さんを紹介した。
 退院後に、山本さん宅を訪れるようになった井上さんは、夫婦の交流をいかにして深めるのかに心を砕いた。闘病中、洋子さんは「不安で仕方がない。怖い」などと口にしたが、死そのものよりも、真樹さんとのきずなの喪失を何より恐れていると感じたからだ。
 30歳で起業し、海外を飛び回っていた真樹さんは、子育ての大事な時期に、家庭を顧みる暇もなかった。還暦を機に経営から身を引き、夫婦でゴルフや海外旅行を楽しむようになった。
 もう一つの共通の趣味が演劇活動。数年前から、「藤谷清六」のペンネームで、演劇の脚本を書いたり、一人芝居に挑戦したり。洋子さんも大学では演劇科に所属し、一家言を持つ。書き上がった作品には、真っ先に目を通した。昨年12月には、真樹さんが書き下ろし
た劇に、洋子さんが出演する計画もあった。
 がんが洋子さんを襲ったのは、実り豊かな老後を目指し、夫婦のきずなを取り戻しているさなかのことだったのだ。「24時間一緒にいよう」と、寂しがり屋の洋子さんのそばに常に寄り添った。
 ある時、井上さんはこんなアドバイスをした。「3分間、ご主人にひざ枕をしてもらってください」戸惑いながらも、ベッドの上に座った真樹さんのひざに頭を乗せた洋子さんは、「3分間てこんなに長いんですね」と漏らした。
「コミュニケーションを深めるには、ちょっと恥ずかしかったり照れくさかったりするくらいの体験が必要な時もあるのです」と井上さんは説明した。
 昨年11月、洋子さんは脳梗塞で言葉を失った。「徹夜で口げんかする夫婦だったから、残念だね」と愚痴る真樹さんに、井上さんは「きっと神様が、今までしたことのない方法で触れ合いなさいと言っているんですよ」と声をかけた。
 眠るような最期をみとった内藤さんに、真樹さんは「死は敗北ではないのですね。くらしの中にある自然なできごとの一つだと妻は教えてくれました」と、しみじみと語りかけた。
 「人任せにせず、ご主人がいのちに向かい合ったからこそ」。内藤さんは胸の内でつぶやいた。
読売新聞2008年2月20日「心の痛み きずなが癒やす」より抜粋