エッセイ

秋の深い味わい


80才をこえたおば(父の妹)の思い出話によると、亡き父は若い頃からかなりの食いしん坊で、干し柿の季節になると出来上がるのが待ちきれず、毎日少しずつ軒下からしっけいしたらしい。
トロリとした百目柿も大好物だった。
そば、うなぎ、すしの名店もよく知っていて、今でいうグルメだったのだろう。
その下(健啖ぶり)は私と弟に確実に伝えられているように思う。
2人とも味へのこだわりと探究心はかなり真剣だ。
何せはずかしい話しだが、26才の頃、大作家の遠藤周作氏とはじめてお会いした時に、目の前にならべられた美しいケーキの数々に目をうばわれ、話しもそっちのけになってしまった様子に先生に大笑いされた。
先生も父も亡き今、どれもなつかしく大切な思い出だ。
秋は自然の恵みに感謝する季節。
自然から次々とおいしいものが届く。
私の診療所で働く人たちも誰もが健啖家。
いのちに向かい合う仕事はエネルギーがいる。
「さあ食べよう食べよう」
と元気なかけ声でみんなでもりもり食べている。
ウェストラインが時々気になるけれど。
特に栗のおいしさは格別だ。
栗の実がとれる秋の日をみんなで心待ちにする。
在宅ホスピスケアという仕事は患者さんの平和な日々を支えるために、私たち医療チームは心身ともに緊張して集中して働く時間が続くことがある。
去年は栗の時期にバタバタしていて注文するのを忘れてしまいがっかりした。
旬のものを旬の時に。それが一番のおいしさだから。
今年は無事注文することができて、岐阜の恵那から栗きんとんが届いた。
口に入れたとたん栗のなめらかな風味とうまいぐあいに残されて粒感が口中に広がる。
大げさでなく
「生きていてよかった」
と思える味わいだ。
これだけでもぜいたくなのに今日はKさんが京都の平安殿という菓子屋から栗きんとんを大切に持ち帰って下さった。
丹波栗を氷砂糖の上品な甘さでそぼろに仕上げ、芯に栗が包まれている。
京ならではのこった上品な栗きんとん。
またしても幸せの時。
秋の外来にこの1年ほど通院しているSさんは大病を得ながら幸いなことに小康状態でお元気だ。
ある日、私たちの栗ぐるいをききつけたのかたくさんの渋皮煮を差し入れして下さった。
ほのぼのと上品な手作りの甘さ。Sさんの指先は渋皮でまっくろになっている。
「実のなる木を庭にうえて収穫は楽しいですよ」
Sさんの庭の栗の木を想像した。
緑色のいがが茶色に変色し下に落ちる。
きれいな長ぐつでSさんはそれをふみつけてたくさんの実を収穫したという。
「今年の実もみることができて幸せです」
Sさんはうれしそうに笑った。
Sさんの渋皮煮には秋の深い味がじっくりとしみこんでいた。